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Brugge Style
ゲタリア出身者は世界の夢を見る
フランス国境にほど近い、スペイン・バスク地方サン・セバスティアンから西へ。
ビルバオへと車で向かう途中、2ヶ所立ち寄りたいところがあった。
車でなければとても行きにくい場所だ。
一ヶ所目はサン・セバスティアン郊外にある、バスク料理の名を高らしめた、ミシュラン3星レストランArzak。新バスク料理を出す。
二ヶ所目はゲタリアという漁村にあるバレンシアガ美術館。
「2011年、スペイン王妃ソフィアによって出身地のゲタリアにバレンシアガ博物館が開館し、バレンシアガ財団名誉館長であるユベール・ド・ジバンシーが出席した。バレンシアガのデザインによる1200点以上のコレクションを持ち、その一部はジバンシーのような弟子や、ベルギー王妃ファビオラ・デ・モラ・イ・アラゴン、モナコ大公妃グレース・ケリーなどのような顧客からの寄贈による」(Wikipediaより)
小高い丘に立つクラシックな建物と、左右の現代建築がなんともいえない粋なハーモニーを醸し出す。
ゲタリア出身のデザイナー「バレンシアガ」といえば、あのディオール御大をして、
「オートクチュール界は、バレンシアガが指揮者のオーケストラのようなものだ。われわれデザイナーはミュージシャンで、バレンシアガの指示に従っている」と言わしめた、ファッション界では最重要人物のひとりである。
ファッション・ハウスもコングロマリット化した昨今、1998年にグッチ・グループが買収するまで、バレンシアガはほとんど忘れられたブランドではあった。
19世紀末にゲタリアで生まれたクリストバル・バレンシアガは、12才の時からファッションに携わり、マドリッドで修行、20代初めにはサン・セバスティアンに自分の店を持った。
その後はパリに進出、戦争などの影響で浮き沈みを繰り返しながら、1972年に77歳で没するまで終生「オートクチュール」にこだわったという。
そのことは、裁縫の知識のないわたしにでも分かるほど、展示物から滲み出ていた。
切り替えや繋ぎ目のない(ように見える)レースのドレス。この膨らみは、ではいったいどうやって作っているのだろう。想像を絶するような分量の布を使ってサーキュラーで取るとしても、熱をあてでもして生地(糸)を伸ばしているのか? こんなに伸びるものなのか?
服正面に比べて、背中のデザインのドラマティックな「意外さ」よ。
平らなテーブルに置いても花びらのように立体的に立ち上がる袖と背中の丸み。
既成概念ではありえない場所に切り替えが入り、背中から腰へと続く流麗なライン。コルセットから女性を解放したその誇りが現れているようだ。
おもしろいのは、近頃はSNS時代に映えるアイコンとしてのBalenciagaロゴ入りの服飾品が若い人たちの間で大人気だ。
「オートクチュールブランド? だから何?」というような感じの脱構築。
ひと昔(わたしの時代)は、ブランドは子供が持つものではない、ブランドの名に恥ない大人になってから、などと言われたものだった。
今は、バレンシアガもユニクロも「クールさ」という基準で同じ土俵上に置いてしまう。ブランドという「会員クラブ」の壁を破壊し、全部同じ平面に置きなおす。
ブランドとは何か、優れたデザインとは何か、という問いに一種の解答を提示してはいると思う。
まあ、「会員クラブ」のメンバーシップは「お金」で買えるようになった、のでもあるわけだが。
先日も、22万円だかのボロボロのスニーカー(スニーカーにマジックでバレンシアガと書いて、土の中に何年か埋めてブルーチーズみたいなったスニーカー!)がニュースを賑わしていたのは記憶に新しい。
2017年にロンドンのヴィクトリア&アルバート博物館で開催されたバレンシアガ展のところでも書いたが、バレンシアガ氏がSNS時代のバレンシアガを見たら何と言うだろうか。
オートクチュールという、アウラのあるオリジナルが、ブランドの名前が、別の価値に置き換えられた複製の時代...インタビューしてみたいなあ。
そしてゲタリアは、マゼランに同行して史上初の世界一周を果たしたエルカーノの出身地でもある。
商船主であったエルカーノは、船を差し押さえられた際に皇帝カルロス一世に恩赦を求め、その引き換えにマゼランの航海に協力させられた。
1521年、フィリピンでマゼランが死亡すると、エルカーノは船団指揮を引き継ぎ、1522年にスペインのサンルーカル・デ・バラメーダに帰還、史上初の世界周航を達した。
出航時点で5隻237名いたメンバーは、帰還時にはエルカーノを含め1隻18名にまで減っていたという。
この成果は単なる冒険譚ではない。
「大航海時代の口火を切ったのはポルトガルであったが、スペインはそれにすぐにおいついたのである。そして世界を一体化したのはカルロス1世時代のスペインであった。海路開拓によるグローバルな交易ネットワークの構築こそ、その後のヨーロッパ経済の根幹」
「ヨーロッパによる世界支配の要因として、しばしば産業革命による生産力の向上が挙げられる。それは決して間違いではないが、そもそも販路がなければいくら生産力を上げても仕方がない。この交易ネットワークは、その後、オランダ、イギリスと主導権が移っていくが、ヨーロッパの世界支配の軸でありつづける」(玉木俊明著『16世紀「世界史のはじまり」より)
ゲタリアの、魚介加工工場のある小さな漁港を眺めていると、その先に広がる「世界」は想像しにくい。
が、いつの時代も、「存在すらも知らないものが存在する、ということをなぜか経験に先立って知る能力のある人」が出てきて、パラダイムを塗り替えるものだなあと思った。
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