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Brugge Style
蝶々夫人
この、広告にも使われた写真、インパクトありますね...
イングリッシュ・ナショナル・オペラMadam Batterfuly 『蝶々夫人』のリハーサルを鑑賞した。
この作品に限っては本番を見る予定はない。
プッチーニの音楽は素晴らしいと思うが、『蝶々夫人』はどうしても好きになれない話だからだ。
過去の芸術作品と、現代のポリティカル・コレクトネスは切り離さなければならない。
そうしなければ、われわれはギリシャ神話もシェイクスピアもアラジンも白雪姫も楽しめなくなってしまう。
でもでも...
『蝶々夫人』は舞台が日本の長崎で、アメリカ人の士官が15歳の日本の少女を現地妻にしたのち捨てる、しかも子供まで取り上げる、という話の筋は、「アメリカは日本を好きにできる」という第二次世界大戦後の両国の関係のようである。
また、この作品に顕著なオリエンタリズムは、他文化に対する無知と同義語で見るに耐えない。
なぜこの作品のオリエンタリズムは特にわたしの気に障るのだろうか。わたしが日本人だからだろうか。
それとも西洋人の蒙を楽しむべきなのか。
例えばこの前見たオペラは『カルメン』だった。
ジプシーがあれほどにもステレオタイプ(性的にルーズで、定住せず、犯罪で生計を立て、非科学的でタロット占いなどを好み、独特の音楽性を持つ人たち)に描かれているのにもかかわらず、それがあまり気にならなかったことに改めて驚く。
こういう意見は常にあがるため、プログラム中には『オペラと政治』という考察まであり、しかし最後はこう締めくくってあった。
作品が難しい主題を扱っているからといって、作者(この場合はプッチーニ)がその考えを肯定しているわけではない。われわれ観客はみな蝶々さんに感情移入し、蝶々さんが感情的な成熟を遂げたかたわらで、ピンカートンは卑怯で弱虫な男と描かれているではないか、と。
たしかに最後の場面では、少なくともわたしの両隣とその向こうの観客は男性も女性も蝶々さんに感情移入し、鼻をすすりながら泣いていた。
わたしは「ここ、泣くとこなの?! 怒って拳を振りあげるところじゃないの?!」と感覚の違いに驚いたのだった。
蝶々さんがいかに誇り高く、相手の卑小さの前でさえ尊厳を失わない、いかに器の大きい人物として描かれていようとも、いやそう描かれれば描かれるほど、おそらくわたしは国と国との力関係に、ジェンダーに、人種の違いに、現実にせよ社会的な思い込みであるにせよ、非対称性があることに腹を立てる。
プッチーニの優れた音楽ゆえに、時代に即さないからもう上演するなとか、美術館に過去の蒙として飾っておくだけにしろ、などとは言いたくないが。
一番よかった演出は、蝶々さんの子供が文楽の人形をモデルにしていることで、当然この人形は黒子が操っており、この人形に生き生きとした表情をもたらす動きがすばらしくて感心したのだった。
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