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Brugge Style
アントワープの2人のアーティスト

先月終わりにベルギーに帰っていた時、ルーベンス・ハウス(Rubenshuis)のルーベンス・プリヴェ(Rubens Prive eにアクサン)展と、モード美術館(Mode Museum) のドリス・ヴァン・ノーテン(Dries Van Noten)展へ行った。
この2つの展覧会を見るのがアントワープ滞在の目的のひとつだったとはいえ、世界の都、ロンドンのキラ星のような展示会ほどには期待していなかった。
わたしは、英国は何はともあれ展示会企画運営がものすごく上手いと思っているのだ。
しかしわたしは間違っていた。
ロンドンの諸展覧会に負けるとも劣らず、いや、入場料の格安さを考えたらルーベンス展もヴァン・ノーテン展も特別に優れているのでは? と思う出来映え。
ベルギーやればできる子なのである。たぶん。
「ルーベンス・プリヴェ」はルーベンスの描いた自画像を含めた家族の肖像画の展覧会だ。
才能にも人格にも恵まれ、美貌で押し出しが良く、ビジネスやセルフ・プロデュースにも長け、外交官としても才能を発揮し、家族生活にも恵まれ、財産も築いた「最も恵まれた芸術家」ルーベンス。
セルフ・プロデュースにも長けた彼ゆえ、自画像を始めとした家族の肖像画は「自分が社会からどう見られたいか」というポーズも多分に含まれてたらしい。それを差し引いても彼がいかに家族を愛おしんだかがひしひしと伝わって来、特に彼の最初の妻と夭折した兄弟の描き方には圧倒された。
わたしはルーベンスの「大きな物語」を描いた作品(例えば2月にはロンドンのロイヤル・アカデミーで展覧会を見学)よりも、肖像画の方が好きだ。

彼のデザイナーとしての仕事「洋服」を、時代を追って展示するだけではなく、彼のイスピレーションの源(映画、映像、絵画、彫刻、他のデザイナー、人物...)を併せて見るのがテーマだ。
わたしなりに説明すると、認識論的な手法、つまりヴァン・ノーテンというアーティストが照らし出すことによって可視化したアート(<この場合彼の作る服)だけではなく、彼が手に握っている光源はいったい何なのかを見るというコンセプト...ありそうでなさそうな展示方法。
以下、アーティストとしての彼の言葉をいくつか引用する。
「自己の内観、自己反映、デザイナーとしての自分の仕事の仕方、自分とアートとの関係、そして私が愛するものすべて」
「コピーでもオマージュでもない。他人の仕事によってインスパイアされ、それを異なったセッティングに移植する。それは客観的でありかつパーソナルなもの」
.
「インスピレーションを受けたそれぞれ異なる要素を統合し、私はどのように製作をするのか(を見てもらいたい)」
「コレクションの出発点は文学的でもあり、抽象的でもある。インスピレーションの源は絵画、色、思考、ジェスチャー、香り、花、なんでもかんでも。最も大切なのは一番最初のひらめきからの旅、最後の目的地コレクションへの旅だ」

つまり、コレクションを作り始める時、彼はコレクションが最終的にどういうものになるか全然分かっていない、ということだ。
最初のこの旅立ちの時点では、彼のコレクションの完成形はまだ世界のどこにも存在せず、それゆえに彼自身もコレクションを表現するボキャブラリーを持っていない。
自分はどこが最終目的地なのかは知らない。どこに向かっているかは分からない。しかしインスピレーションの源を頼りに一定の方向に向かっているらしいということは経験から直感で分かる。直感とは自分の中から湧いてくる魔法のような力と思われがちだが、いや、経験の積み重ねのことなのだ。
直感に導かれているうちにある日、スタート地点では想像もできず、と言うか、自分のボキャブラリーの範疇には存在もせず、これまでの自分の世界にはなかったコレクションが表れ初めていることに気づく。
これが(ほんものの)芸術家の仕事であると思う。
初めからどんなものを撮るか分かっている映画、どんな結末になるか分かっている小説、完成型がすでにある絵画、どんな形か分かっている洋服...そんなものを作っておもしろいだろうか...とは、わたしにさえ分かる。
また、彼のテーマには
良い趣味と悪趣味
光と闇
素朴と洗練
などという対語が多いのがとても印象に残った。
神様の仕事ですな。神業。
神は完全であり、その中に二元性(善悪の区別とか)はないのだから。
両展覧会とも素晴らしかった。
ベルギーらしいのは、どちらも画集が欲しかったのだが、特別には一冊も作成されていなかったこと...
ロンドンなら、画集だけでなく、食器から洋服から、アクセサリーから関連の土産物をたくさん作成するのに。
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娘の意見に従ってみる

大げさにほめてくれるのは面倒臭いがまあいいとして、こっそり新しいものを買ってもすぐにバレるのでごまかすことはできない(<何をごまかすというのだ)。
たまに不評もある。
例えば夫は駄目出しはほとんどしないが、真夏以外の黒はあまりいいとは思わないらしい。
娘はわたしがローヒールを履いて楽をしていると怒る。また、「安いし、買っておこうかなあ」「これ、使えそうじゃない?」などというおしゃれの意図のはっきりしない出費は速攻でたしなめられる。
娘は最近では、わたしのまとめ髪のラフさと乱れの境界線についてや、口紅の塗り方(これもラフさとだらしなさの境界だな)にもやんわりNGを出してくるようになった。
うるさい彼女が特にうるさいのがサングラスの似合う似合わないだ。
彼女曰く、とにかく流行は無視してアビエーターなどのメタルフレームを選ぶようにしろ、とこうだ。
今まで内心は「子供の言うこと」だと気にしていなかったのだが、もしかしたら子供の意見や男性の好みというのは最も世間一般の好みなのかも、ということに気がついた。
ならば、どなたにも好印象を与えたい時や、普遍的な綺麗さが必要な時にはその意見無碍にはできない。普遍的な綺麗さというのは、長く残る記念写真を撮影する、式典、初対面を迎える場、女王陛下にお目にかかるなどですな。
服装は社会的なものだ。他人に敬意を払うため、自己主張よりも優先させなければならないケースもある。
先日、友達がプロファイルに使う写真を選んでくれと言ってきた。
どれも美しかったのでかなり迷いつつ、2枚選んだ。そして「仕事のために一般受けする写真を選びたいなら、旦那さんの意見を聞いてみるのもいいと思う」と提案した。
いかがでしょう?
......
以下はさらにどうってことない話。
先日、ついに巡り逢った。
百貨店でサングラスをあれこれ試着していて、娘が「今まで試着したことのあるもの、持ってるもの、すべての中で一番似合う!」と一瞬も迷わずオッケーを出したOliver Peopleのもの。
上階へ行く。わたしの頭の中は夏のバカンス一色だ。バカンスを映画のように演出したい(<一種のごっこ遊び)という虚栄を趣味としているので服飾もそういうものに目がいく。
今年はDolce&Gabbanaの花柄のサマードレスをと思っていたのにもかかわらず、とてもThe Rowらしく、The Rowでなければ、 The Rowでしかありえない肌触りのいい超シンプルな黒い細いワンピースを買うように娘にアドバイスされた。前からだと何のことはないボートネックでフレンチスリーブ、ボディコンの服だが、背中がレオタードのように腰まで開いているやつ。やっぱりこういうのが一番似合う、と彼女が言うのでこちらも。
靴は流行りのスリッポンが観光にいいなあ欲しいなあと見ていると「ああいうのは絶対に似合わないから、安易に流行にのるのは止めなさい」と言われた。後日ネットでこっそり注文しよう...
娘のアドバイスに従っていると「彼女はこういうお母さんの隣りにいたいのだな」と想像でき、日に日に偉そうになる彼女さえも、ちょっと可憐でいじらしくなる。
(わたし、よく薔薇のような女になりたいとか、芍薬のような、菖蒲のようななどとしょっちゅう言ってますね。花のようにバランスの取れた女になりたいのです。カラー、いいなあ...)
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フォリー=ベリジェールの酒場

コートルード・ギャラリーって前から写真撮影許可あったかな?
とにかくフラッシュなしの撮影許可があるのに気がついたので、初めて写真を撮ってみた。
見よ、彼女のうつろなまなざしを。
マネの描く
人間のコミュニケーションの不完全性や、
人間同士の疎外(親子の間にさえあるお互いからの疎外感)には
強烈に惹付けられる。
......
学生の頃、モダンアートへの導入部分をやっている時
わたしがマネとドガが好きであると言ったら、その教授が
「モエサンは金持ちのぼんぼんが好きなんだねえ」と目を細めておっしゃった。
バジールを好きなことは臥せておいた。
この教授は本人がぼんぼんの大変傲慢な若い男で、
学生に容赦なく当てこすりをすることと
しっかり者の女学生を秘書のようにはべらせているので有名だった。
ある日、女学生のうちの一人がわたしのところへ来て、
先生がゼミに遊びにくるように言っている、と。
「先生、気が強くてわがままで派手な女の子が好きなんですよ」
と冷静に彼女は言放った。
このサドマゾ男!
もちろん行かなかった。
コミュニケーションの不完全性(笑)。
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ゴヤ、天才

コートルード・ギャラリーで開催中の
Goya - The Witches and Old Woman Album(「魔女と老女のアルバム」展)へ。
47歳で聴覚を失ったゴヤが、
自分自身の楽しみとして、「想像と創造」をテーマに
ドローイングから成る8冊のアルバムを作成した。
有名な「黒い絵」(Black Painting)シリーズを描いたのと同時期のことだ。
狂人、魔女、老人に多大な関心を持っていたらしい彼が描いた小さなたくさんの絵は
人間の枯れない虚栄心や、愚かさに対する痛烈な皮肉に満ちていながら、
同時に人間の持ついじらしさ可憐さを描いている。
愛だよ、愛。
例えばわたしが一番見入ったのは、
老婆になってなお、結婚の夢を捨てられない腰の曲がった女だ。
彼女の足下には彼女自身の影が黒々と描かれ、
彼女のパートナーは影だけなのである、と...
しかしそのかわいらしい顔と、胸の辺りで指と指をからませた愛らしい仕草は
醜悪どころか、
人間てそういうものでしょう? というゴヤの声が聞こえるようだ。
フーコーじゃないが、
狂気は(その狂人の住む)文化を濃縮圧縮して表出すると考えていたのかなあ。
だから狂人や魔女や老女に興味があったのかなあ。
さすが、天才。
11時に入って15時すぎまでコートルード・ギャラリーを久しぶりにゆっくり見て回った。
わたしの大好きなマネ(マネは全部好き)とドガ(踊り子以外はどれも大好き)もあり
スラー(若い頃は良さが全然分からなかった)も結構あって、飽きることがない。
良い一日だった!
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