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polunin project




セルゲイといえば、ラフマニノフかプロコフィエフか、ディアギレフかポルーニンか。


サドラーズでセルゲイ・ポルーニンの「ポルーニン・プロジェクト」を鑑賞した。

英国プレミアのVladimir Vasiliev’s Icarus「イカロス」

ソビエト時代の作品 Tea or Coffee「ティーorコーヒー」choreographed by Andrey Kaydanovskiy

世界プレミアのNarcissus and Echo「ナルキッソスとエコー」co-created by Polunin

(見よ、この麗しさ。写真は彼自身のTwitterより)


セルゲイ・ポルーニンはウクライナ生まれ、今年27歳の「今世紀もっとも優れた」バレエダンサーの一人だ。
19歳の時に史上最年少で英国ロイヤル・バレエのプリンシパルになり、キャリア上昇期の2年後、啖呵を切ってロイヤル・バレエを去ったというエピソードの持ち主。


彼のドキュメンタリー映画、The Dancerは一見の価値がある。
ポルーニンはウクライナの貧しい家庭に生まれた。バレエの才能に恵まれ、バレエの授業料を賄うために父親と祖母が外国へ出稼ぎに行き、その後両親は離婚、家族離散。一方で彼は英国ロイヤル・バレエ・スクールに入学し、史上最年少のプリンシパルになるのである。


ポルーニンがロイヤル・バレエを去ったのは、エスタブリッシュメントが求めることと彼の目指す方向に齟齬があったからだと言われている。本人はインタビューでクラシック・バレエを憎んでいるとまで言っている。

当時の彼は例えばキラキラした王子様役に飽き飽きしていたのだろうし、あふるる才能とカリスマをもってバレエを時代に即したヒップでクールなものに変えようという野望を抱いていたようだった。

しかし...


わたしの下世話な想像に過ぎないが、貧しい家族の全期待を背負い、まるで自分のせいで家族が崩壊したような結果になったと聞けば、その輝く肖像の陰にどす黒さを抱えている人かもしれない、と想像するのは難くない。

バレエを続けてきたのは、バレエ芸術への愛というモーティベーション以外に、やめるにやめられない才能、周囲の大きすぎる期待、社会に対する不満、エスタブリッシュメントへの反感、見返してやるという気持ちや、もっと俗物的な成功への乾きもあったのかもしれない。

彼のバレエへの愛憎というのは相当なのではないか。
そりゃバレエを憎んでいるだろうて。

バレエを別の次元のアートにトランスフォームしたい、バレエを超えたことをやりたい、などと渇望しつつ、しかし幼い頃からバレエしかやったことがない、というもどかしさ。



ポルーニンの「プロジェクト」は、いちバレエファンとしてはいたたまれないものだった。
ひとことでいうと才能の持ち腐れ、浪費。

彼が今世紀の最高に優れたダンサーのひとりで、姿形も美しく野心もあり、反抗的ポーズすらも魅力的...というのは喜んで認めるし、これからも彼がロンドンで踊ると聞けば飛んでいくと思う。
が、彼は、新しいバレエ、バレエを超えた新しいアートを創造し、プロデュースする才能にも恵まれているだろうか?
まだまだ若いから今後を期待はできるが。


第一に、わたしから見てもセンスが古くさすぎた。
45分間の一幕もののバレエ「ナルキッソスとエコー」のセンスは、場末のコスプレ・バアのショウのようだった。
彼がバレエを憎むあまり、それを場末のショウに引き摺り下ろしたいと考えているのならば話は別だが、わたしが受けとったところでは彼は大真面目だった。大真面目に「ナルキッソス」(自分に陶酔している美青年!)を演っていた。

ひとり、彼の実生活上のパートナーであるナタリア・オシポヴァ(ボリショイバレエを経て、現在ロイヤルバレエのプリンシパル)が、彼の作品を盛り上げようとしているのがいじらしかった。そのいじらしさはエコーのいじらしさそのもので、彼女にさらにパワーを与え、さらに輝かせていた。


ただ、この舞台の前に、ナショナル・ギャラリーで開催中の「ミケランジャロとセバスティアーノ」展を鑑賞したばかりで、ミケランジャロが目指し、大理石から切り出した「心身ともに完璧なキリスト像」の美しさが彼の身体に重なり、そこは勝手に感動させてもらった。

さらに冒頭の「イカロス」で、スクリーンに太陽神ヘリオス(のちにアポロンと習合)の父権主義的な顔が大映しされたため、ヘリオスとキリスト教の神のイメージがリンクし、ポルーニン演ずるイカロスが、贖罪するキリストに見えましたね。

って、わたしのセンスも相当古いか(笑)。


「若さと美しさを兼ね備えていたナルキッソスは、ある時アプロディーテーの贈り物を侮辱する。アプロディーテーは怒り、ナルキッソスを愛される相手に所有させることを拒むようにする」(ウィキペディアより)

美の女神アフロディテがナルキッソス:ポルーニンへ贈ったのは「バレエの才能」だったのかもしれない。


うまくまとめたつもり(笑)。
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春も夕暮れ








夕暮れも春めいてきた

雨上がりのトラファルガー広場


......



そういえば、昨日、トラファルガー広場に面するナショナルギャラリーで
スクリュー・ドライバーを持った男が
ゲインズバラの「朝の散歩」を傷つけたとニュースになった。

まさにその事件が起こるであろう1時間ほど前に、
この絵の前を通り過ぎていた...

ナショナル・ギャラリーの展示には、
絵を保護するガラスも、ロープもはられておらず、
係員が目を光らせているのみ。

入り口で荷物検査は行われているが、館内は常に激混み。

無料という点でもかなりオープンなこの美術館の雰囲気が傷つかないことを願う。
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梅一輪梅一輪ほどの暖かさ








日が出ると温室内にある方のリビングは夏が思いやられるほど暑くなるが
日陰はまだまだ寒い。

お彼岸入りですね。


南側の庭で春の夕焼けに染まる桜の花が美しすぎる
(花びらの丸いところがまるで梅のよう)

北側の庭の桜はさっぱり。これからか。

そのかわり、北側では黄色いラッパ水仙が今を盛りと咲いている。
ブルージュのベギン会の庭もさぞ綺麗だろうなあ。


わたしのお気に入り、しだれ柳の葉の成長も
じっと見ていたら見えるのではないかというくらい早い。
モネの庭のしだれ柳のように巨大化したらいいなあ。


この夏、家族で一ヶ月間遊びに来てくれる海外旅行が日常生活の延長のような友達もいれば
この6年間(いやブルージュ時代を入れたら20年近く)、遊びに行きたい! と言いながら
それが一度も実現していない友達もいて

彼女のために薔薇の苗を植えることにした。
いつか、いつの日か彼女がここへ来た時に
「ほらー、引っ越した時に植えたあなたの薔薇、こんなに大きくなってしまったよ」
と、あてこすりを言うために。


桜梅桃李
楊梅桃李
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ずっと気になっていること




去年末、日本へ一時帰国した時に、ある場所で話題になったことがずっと気になっている。

T.P.O.(<死語?)を鑑みて、「わたしは自分たちとは違う人たちを排除したいとは思わない。お互いが『隣人を愛する』成熟した精神性をもった人々で構成された社会を目指したい(隣人とは文化も言語も考え方も立場も全く異なる人たちの意)」と言うのみにとどめたのだが、気になったので後からメールを書いた。しかし時間が経つにつれてメールを送りつけるのも大人気ないかと思いなおし放置。


昨日、常々そのリベラルさでわたしが一目置いてきたオランダで極右が第1党を取るかという騒ぎもあり、メールを送りつける代わりにここで発散することにする(笑)。


その話題とは、日本に滞在する特定のグループの人たちが、日本社会に迷惑ばかりかけているせいで外国人排斥ムードが高まっているという話と、天皇陛下をいただくわたくしたち日本人の歴史と美意識はダントツで優れているという話だった。
こう書くと「モエはいったいどんな付き合いをしているのか」という感じだが、決して偏った寄り合いではなく、神戸への郷土愛が共通項の、女性ばかりの集まりだ。


......


日本のネット上、特に巨大掲示板系界隈で、「外国人排除」ムードが高まっていることは知っています。
いや、ネットという仮想空間だけでなく、現に欧州は外国人排斥路線を驀進しています。

一方で、神戸や大阪に多く住む日本の友達や家族からも「外国人に迷惑している」的な話は聞いたことがなく、わたしは現在日本に住んでいないし、過激ではない世間一般の空気がどういったものなのかは分かりません。結局、日本のどの層を切り取るかによってもムードは全然違うと思いますし。


わたしは無責任になりがちなネット上の「ニュース」やウワサ話、あるいは偏った言論(陰謀論、トンデモ本など)には気をつけなければと思っています。
特にナショナリズムや差別、それからゴシップに絡む話には用心しています。

その上で、日本を全体的に「外国人排除」ムードが覆っているとしたら、理由のひとつはこうじゃないかなと思います。

時代が不安定になると、ナショナリズムがウケます。古今東西同じ公式です。スケープ・ゴート「仮想敵」を探し出して攻撃する一連の行為は、社会の中の「弱者」を結びつけるのです。

社会心理学でも、ある集団のまとまりが強い場合、その集団内の社会的地位の低いメンバーを特定して攻撃することによって、強い一体感や連帯感を維持する機能が働くと明らかにされています。

すなわち、欧米で広がる排外主義的運動が、常に移民問題、失業問題、格差問題とリンクしているのは偶然ではありません。社会的「弱者」は、外国人など後からやってきた人たち「仮想敵」のせいで、自分たちの正統な権利と機会が奪われていると感じたいからです。

「弱者」はおそらく金もあまりない、コネも、スキルも、プロモーション能力もあまりない。それは自分の努力が足りないせいではなく、「仮想敵」がわれわれの機会を不当に奪っているせいである...と思いたい。いや思っている。

彼ら「弱者」はきっとある意味で孤独です。コネもなければプロモーション能力もないから。そして孤独ゆえに、できたらなんらかのグループに属して恩恵を受けたいと思っている。努力をしなくてもいい、責任をとらなくてもいい幻想的な共同体に。それが「民族」「誇り高きわれら◯◯人」という旗印ではないかと思います。
どう考えてもヤバい教育勅語があんなにもてはやされているのもそのせいではないでしょうか。


つまり、日本でも格差はどんどん広がり、「弱者」がものすごい勢いで増えているということではないか。
アメリカではそういう勢力(一般的に貧しく学のない白人層)がトランプ大統領を選んでしまいました。
日本の将来もそっくりそのままになるのではないかと危惧します。



次に、わたしは理由がなんであれ差別には加担したくないと思っています。
人間を属性で差別するのは危険です。

某国人だから、肌の色がどうだから、どこそこの出身だから、障害があるから...という人間の属性で人を差別したくないのは、歴史の中で人類が勝ち取った価値に敬意を払い、未来にパスしたいという気持ちがまずあります。

その価値とは「人から可能性を奪わない、狭めない」ことです(刑罰が主に「可能性の制限」であることを考えたら分かる)。なぜ差別をしてはいけないか...差別は人間から可能性を奪い、可能性を狭めるからです。

次に、自分がいつ被差別の対象になるか分からないという想像力を捨てたくないという気持ちもあります。

女だという理由で、わたしたちの先輩たちはめちゃくちゃ差別されてきた、されているではないですか。
今日はピンピンしているとしても、明日障害者になる可能性もゼロじゃありません。

日本で日本人だけで住んでいるからそんな心配はないと思っていられるのも、批評をくぐり抜けた良書を読む習慣がなく、実際には海外で生活したことはおろか、訪れたこともなく、外国人の友達もいないような一部の連中だけだと思います。

その一部ときたら、ネットやテレビで処理済みの情報を収集しているだけなのに、まるで世界の事情がすべて分かったかのような言動を取るのが特長です。
ニュースでパリのアフリカ人街の写真を一葉見ただけで「パリはもう『白人』の街じゃない。パリなんかに旅行に行くのはバカだ」とか、ひとりのペルー人が殺人事件を起こしたと聞けば、あの広大な南米エリアの人々をまとめて「未開人」呼ばわりし、「やっぱり日本が一番いいわ」と言い合って安心するようなトンチンカンな人たちなのです。


外国に住んでみて、わたしの場合はラッキーなことに先に来ていた日本人がお行儀が良かったため、どこにいっても一定の敬意を受けられると常々感じています。ありがたいことです。

が、いくら本人がすばらしい人でも、「◯◯人でしょ?」「あの宗教の信者?」「女?」という理由で差別される、可能性を制限される人はたくさんいるだろうことは想像するに難しくない。
ある民族がみな優れているとか、みな劣っているという考え方はナチスが推進した優生学にすぎず、根拠はありません。‬



京都に行ったときの話ですが、阪急電車河原町行き特急は結構混んでいました。
話に聞いていた通り、若い韓国人や中国人の観光客が多かったのですが、みなさんお行儀がよく、昼前の車内は和やかな雰囲気でした。
と、河原町行き特急名物・ロマンスシートに座っていた韓国人カップルの男性が、だいぶ離れた位置に立っていた日本人の初老男性に席をゆずりたいと身振り手振りで伝えるのです。男性は「のーさんきゅー」と決然と言って、かたくなに座ろうとしませんでしたが「座ったれよ」と心の中でつぶやいたのはわたしだけじゃなかったはず(笑)。

あきらめた韓国人の青年は席に戻りました。でもその初老男性、烏丸で下車するときに大きな声で「さんきゅーさんきゅー」と声をかけて降りたんですよ。

そんなの一回目撃しただけじゃないかと言われるかもしれませんが、この男性だけでなく、周りの乗客も、男性から話を聞かされるであろう人々も「いい話だね、気持ちいいね」と思うんですよ。これは絶対に小さな影響力ではありません。

わたしはこういう人たちと仲良くし、間を取り持ち、誤解を解き、差別をなくし、人間がナショナリズムから解放され、成熟した市民に成長していくことを願っています。

綺麗ごとだと批判されるのは折り込み済み。でも、綺麗ごとをいう人がごくごく少なかったり、誰も言わなくなったような社会に住みたいですか?


わたしは海外生活が長い日本人としても日本人であることを心から誇りに思っていますし、日本の文化もつつがなく次の世代に託したいと望んでいます。

しかしそれは「日本人は選民である」とか、「日本人じゃないと分からない」とかいうハナシとは全く別ものです。
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なんこう梅のジャム








知らなかった、わたしってジャム好きなのだ...
糖分控えめ、日本のジャムが。

なんこう梅のジャムはその名を聞いただけで
唾液活動が活発になりはしまいか。

ゲランドの塩入りのバターとの組み合わせも美味しいが
わたしはギリシャ・ヨーグルトに入れるのが最っ高に好き!

夫はオールド・ゴーダに合わせるのが最も良いと言う。


ほんっとにおいしいです。
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