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箕輪城跡

2011-10-18 06:29:29 | 歴史散歩
1500年前後に高崎市浜川を拠点にしていた長野氏が築城した城。
築城者は長野業尚(なりひさ)、憲業(のりなり)、業正(なりまさ)、業盛(なりもり)の4代に渡り長野氏の拠点とされておりました。
業政の時代に最盛期を向え、西上野の諸将と婚姻関係を結んで勢力を拡大、永禄年間に入ると西上野は甲斐の武田、相模の北条、越後の上杉の相甲越三つ巴の戦いの舞台へ変貌します。
長野業正は関東管領山内上杉家(上杉憲政)に、最後まで尽くしていた事でも有名です。
武田信玄の西上野侵攻により、長野氏の要所である国峰城(甘楽町)、安中城(安中市)、松井田城(安中市)、倉賀野城(高崎市)が落城、時の当主業盛は難航不落の城と言われた箕輪城に籠城し最後まで戦い抜きます。

この業盛は業正の次男であるが、川越夜戦により兄の吉業(よしなり)が討死し永禄4年に業正の死により、わずか14歳で家督を継いだ。
父兄に劣らず武勇に優れていたそうだ。

何度も信玄の侵攻を撃退して来た父に代わり、指揮をしたが父の死後一度は撃退するも、戦上手な信玄の2万大軍勢に押し寄せられ、箕輪衆を率いて懸命に抗戦した永禄9年(1566年)に、本丸北側御前曲輪の持仏堂で業正の位牌を拝み19歳の若さで一族郎党と共に自害したそうだ。
業盛の息子亀寿丸(2歳)は、家臣に抱かれ落ち延び城の傍の極楽院に匿われ、後に出家し鎮良と名乗り極楽院2代目院主となる。
弟の正宣(まさのぶ)はその後信玄に仕え、弟の業親(なりちか)の子業実(なりざね)は武田滅亡後、箕輪を領した徳川四天王の井伊直政の家臣となり4000石を有し、彦根藩の次席家老を務めた。

幕末の大老で有名な井伊直弼の師とされる長野主膳は、定かではないそうですが業盛の子孫と言われているそうだ。
彦根まで井伊に従った箕輪衆は3代目の業正の様に最後まで主を守り立て、彦根の地でも現代まで続いている。


そして本題の箕輪城である。
この城は高崎い移城した事により廃城となる、堀を含め難攻不落と言われていた城なので、その時に再利用をされないようにあちこち崩されて現在に至る。

大規模な堀や石垣などは残っており、当時の様子を偲ばせております。
中でも圧巻は、城の本丸を中心に最大幅30m深さ10mの堀である。
余りにも深い為に、吊橋を作り行き来していた事が最近解明されたとか?
そして城の中央部を南北に分断する役割の大堀切、搦め手から大手門方向にある榛名白川までの約300mの大堀切は戦後植えられた杉があり良く判らなかったそうですが、最近調査の為に伐採が始まった為素通しになりつつあり見応え十分である。

一時期北条氏が治めていた事もあり、小田原城に似た作りにもなっている。
現在は江戸から遡り北条氏時代までの調査が進んでいるとの事であり、長野氏までの調査には至ってないとの事である。
今残っている石垣や大手門からの登城ルートは井伊氏の時代のものだそうで、これは城主の権威を知らしめる為に作られた石垣や道筋のようです。
特に石垣は、笑い積みと言う積み方で大きな石の周りを小さな石で、笑っているかの様に積む技法だそうです。
石垣を正面に見た写真の左側は刺さった様に積まれているが、これは井伊氏が廃城にした後地元住民達が昔を忍んで復元する為に石を刺して積んだ物だそうで、右半分の笑い積みの様にしっかりした積み方ではないそうだ。


これからの解明に興味が湧きます。
天守閣の素晴らしい城だけが、城ではありません。
城好きならば、是非一度は訪れてみるべきだと思います。
いや・・・この城を見なくして戦国の城は語れないかも知れません。

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