高校を卒業後、一年間浪人生活をしてから名古屋の大学に行くことになった。千葉に住んでいたのは父がその当時の科学技術庁 放射線医学総合研究所(放医研)に勤めていたからで、幼稚園の3年間と高校一年の途中までの13年ちょっとを放医研の官舎で暮らした。
最後に、その放医研の様子を見に行くことにしたのだ。地図を見ておおよその場所は分かるのだが、記憶が曖昧なのと周囲の様子が全く変わっていて近くに来てもさっぱり分からない。あとで考えると道そのものが変わっている、昔のバスの通っていた道の上をモノレールが通っている、子供の頃、長い道だと思っていたのが驚くほど短い、などが原因だった。何か、すべてのものが小さく、短く見えるのだ。まあ、自分が大きくなったからなんだろうか。高校生からそんなに大きくなっていないのに。何なんだろう、この現象は。
ようやく、昔の研究所の守衛所を見つけて・・・、通過しようとしたら止められた。昔はそんなことはなくて守衛所の前を通って通学していたし、車も自由に出入りしていたけれど。中の人間と分かっていたからなのかもしれない。守衛さんに事情を話して、久しぶりに中の様子を見てみたいと話したら、まあ、良いでしょうということになった。研究所正面の入り口は部分的にそのまま残っていた。
でも、入り口の右側の二階部部分が道を渡り、講堂へ繋る通路になっていたはずなのだ。その講堂の前のガラス張りのスペースに卓球台が2台置けて、家族や友達とよく卓球をして遊んだ。
今は外階段がついて本館から直接、講堂には行けなくなっている。当時無かった大きな建物が沢山建っていて、その工事に通路が邪魔だったのだろう。この施設には病院が併設されていて(一枚目の写真の右奥)、現在は重粒子線を用いたがん治療も可能になっている。
さて、記憶を頼りに官舎のあったところに向かった。兎に角、記憶とは縮尺が1/2の感覚なのと、昔は無かった建物が沢山あって混乱する。途中、地下室からの通路と交わる辺りで小学生の時に怪獣映画のロケがあって、雨の日、傘をさして見に行った記憶がある。何とかと地底怪獣何とか・・・、忘れた。その後、角を曲がって宿舎と研究棟の間を横切っていた「試験道路」に出ることができた。
反対側・・・・
この試験道路は、隣接していた昔の建設省土木研究所の試験用の道路で、記憶では随分長い道路だった。上の写真では試験道路の片側の端までそのまま、保存されているように見える。一応、行ってみたが周囲は大きく変わっていて、あったはずのプールが建物に変わっていたり、桑畑(研究に使うカイコの餌用)も無くなっていた。
下の写真では試験道路は途中でフェンスで遮られているようで、長さは半分も残っていない。帰宅後、調べてみると、随分早くに建設省から国土交通省に変わり、土木研究所は筑波に移転していた。その後に稲毛区の区役所や大きなマンションなどが建ったようで周囲の様子は随分変わってしまったのだ。この道路は実験をするとき以外は車が通ることはなく、自転車やローラースケートで、官舎の友達たちと競争を良くしていた。
さて、試験道路を渡った左側に官舎があったのだが・・・・
三棟あった内の真ん中の手前から二つ目。こんな小さかったっけ・・・・、当時は一階と二階で一軒だったが、今は外階段が付けられて一階に一部屋、二階に一部屋に分けられて研修生の宿舎になっていた。昔は外側の配線や配電盤などは一切無かったし、エアコンなんてまだ無い時代だった。いや、貧しくて買えなかったのかもしれないけど。この家に一家四人で住んでいた。
千葉の変貌は目を見張る。長男の住んでいる八千代市緑が丘辺りは、今はとんでもなくデカいマンションが山ほど建つ街だけれど、昔は何もなく、近くの用水路に良く釣りに来た場所だったのに・・・。すべてが小さく見え、まるでガリバー旅行記のような経験だった。