長岡の花火
8月6日は広島に原爆が投下された日だ。生まれてからこの日をもう、何度も迎えてテレビの画面を見て、黙祷をしたり、しなかったり。
でも、最近は父のことを思い出して、想いに耽る。
僕は被爆二世だ。だからといって、何かしら障害を負っているわけではないし、生前の父も頑丈で97才で老衰で亡くなるまで呆けることなく生き抜いた。
父は少し変わった経歴の持ち主で、福島県伊達郡の旧家の次男坊として生まれた。その後、京城帝大医学部の教授をしていた叔父のところに移り医大生となった。
大戦が始まり戦況も厳しくなった頃、学業を一年早く切り上げて軍医として入隊したと聞いた。多分、陸軍の福山連隊、のちの西部軍管区広島師管だろう。
父は生前、あまり戦争の事は話さなかったし、僕も敢えて話したくないことを聞き出そうとは思わなかった。でも、広島で被爆したことだけは知っていた。
父は被爆者手帳を持っていたのだが、僕は子供ながらに父がなかなか被爆者登録ができない人の相談にのっていたことは覚えている。
原爆が広島に投下された時、父は広島市の郊外に駐屯していたようだ。軍医だったので大尉として部下と一緒に。
原爆が投下された朝、訓練を終えて戻る途中で原爆のきのこ雲を見て、部下を連れて市内に向かい救護に当たったのだが・・・・
酷く被爆しているはずなのだが、その後、70年ほど生きることになる。余程、repair enzyme (遺伝子の修復をする酵素・・) の活性が高かったのか・・・
それを僕が遺伝していることを望みたい。
父は戦後、いろいろ紆余曲折はあったが公務員として放射線医学総合研究所、愛知がんセンターなどで働くことになるのだが、
最後には福山市の透析病院の医師として働きながら、自費でガン治療のためのハイパーサーミア療法の基礎研究をしながら生きた。
福山の部隊に所属していた人たちは南方に送られ多くが亡くなったしまったけれど、父は出征する直前に結核を発症し入院となった。
父を運ぶ筈だった船は沖縄に向かう途中で沈められ、ほとんどが亡くなってしまったと聞いた。もう、日本に制海権も制空権もなかった頃のことなのだろうか。
父は偶然の病気で生き延びて、さらに被爆しながらも97才まで生涯を全うしたと言ってよいのだろう。
公務員を退官後、生まれた郷里の福島県で何年か透析医として働いた後に、福山に赴き生涯を終えることになるのだが、何故だったのか・・・・。
いろいろと、思い出していたら遅くなってしまった。
お盆が近くなると両親を少しだけ?思い出します、亡くなった両親の年齢に近くなりました。両親ともに神戸に引き取り最期を看取りましたので、家内が大変だったろうなと思ってます。
自宅はICに近いので、森林公園は距離の割に時間がかかりません。
早いもので父が亡くなってからもう8年、母がなくなってから2年近く経ちました。2人とも長生きでいつまでも生きているように思っていましたが、そうはいきませんね。