カラダよろこぶろぐ

山の記録と日々の話

気仙沼の熱い1日。

2012-03-27 | イワテケン

2012.3.25(日) 「気仙沼さんま寄席」に一人で参加してきました。

この「気仙沼さんま寄席」とは、
”千人もの人が、わざわざ遠くからやってきて、見たくなっちゃう落語会”のことです。

通常なら東京でやればいい落語会を、わざわざ気仙沼でやる。
慰問ではなく、気仙沼の人がスタッフして働き、私たちがお金を使う。
それが今年の「目黒のさんま祭(9/16)」で振舞われるさんま代
(震災の年も気仙沼の予算で送られていた)になる、という会。
糸井さん、すごい。なんと素晴らしい発想なんだろう!

しかも、その高座を躊躇することなく「よくぞ、わたしに声をかけてくださいました」と、
快く引き受けたのが大大大好きな志の輔師匠 かっこよすぎる・・・
それだけでもうるうるしちゃうのに、さらに、
「落語が終わって、はいさよならじゃ別れがたい。打ち上げもやろう」
えーーー!打ち上げ?ときたら絶対に参加したい!!
こんな前代未聞のイベント、ワクワクしないはずがない!

・・・と発売初日にそわそわしながら無事にチケットを手に入れ、待ち望んでいた一日が始まりました。




当日。事前にJTBから送られていたチケットで各自新幹線に乗り、一ノ関駅下車。
今回の寄席には前日に気仙沼入りし、宿泊するカレイコースや当日宿泊するタラコース、
私のように朝新幹線で入り、その日の夜行バスで東京へ戻るサメコースなどのツアーがあります。
一ノ関駅で事前に待っていてくださるスタッフの方に連れられ、決められたバスに乗り込みます。



車内ではほぼ日のスタッフさんの他に、地元気仙沼の旅館やホテル、
商店の女将さんが組織する団体「つばき会」のおかみさん”斉藤さん”がガイドをしてくださいました。


一ノ関駅から1時間ほど山を越えると、陸前高田市に入りました。



ここは下車。
私は岩手で見ていた光景ですが、初めての方が多いようで言葉を失っていました。



そこからまた移動。
一年経っても町のあちこちにまだ手付かず状態の場所も多く、このエリアの被害の大きさに驚きました。
ここまで津波が来た、という地区から海までの距離があまりにも遠いのです。
海が見えない、こんなところにまで津波が・・・
私が見ていた(北)三陸の被災箇所の数倍大きいような感じを受けました。



有名な高田松原の「奇跡の一本松」時間がなく下車はしませんでしたが、
松の色が変わってしまっているのが遠目にも良く解りました。
事実上の保護は断念されても、新たな方法で育てていくようです。




 
全長60メートルの大型漁船が流れ着いた場所。なんと港から約800mの距離だそうです。
約1km、人間が普通に歩いたら10分はかかる距離、それも平坦に道が続いていたらの話。



この「鹿折地区」はあの日、TVで燃える海を見た・・・あの場所でした。
油タンクが流され大量の油が湾に流出。その油が津波とともに押し寄せてきたため大規模火災となりました。
ここは津波そのものというよりは、火災の被害でこのような状態に。


私たちのバスガイドをしてくださったおかみさんの家もこの地区だったそうです。
あの日のことをたくさん話してくださいました、自宅が燃えていることを知ったのが3.11の夜。
でも生きることに必死だった。泣く余裕すらなかったと。

津波の怖さを教わっていたから、家族8人てんでんこになり全員が揃ったのは2日後。
あの日、逃げる途中にすれ違った女子高生や、渋滞にはまって身動きの取れない車の中にいた人々。
会ったこともないあの人たちは生き延びたのだろうか・・・・・・。
今でもその人たちの表情や、バキバキと音を立て流れる家、車ごと津波に飲まれながら鳴り響くクラクションの音が、
フラッシュバックしてくると話してくださいました。
その他、ここには書けないあの日のこと。実際の壮絶な体験を伺って何度も胸が詰まりました。



よく被災地の写真を撮っていいのでしょうか?来てもいいのでしょうか?と言われるけれど、
何もいけないことなどない、むしろ撮ってほしい、来て、見て、感じたことを広く伝えて欲しい、
そう話されていました。
3.11の日から今日まで見ず知らずの私たちの町を片付けに来てくれたり、
たくさんの支援を頂き、何度も何度も皆さんに感謝している、とも仰っていました。

このおかみさんたちは気仙沼盛上げ隊を結成し、気仙沼から出港する漁船の出港の見送りなども行っているそうです。
自分は家も仕事も失ったけど、幸い家族が全員無事だったから前へ進もうと思えて今があるけど、
心の復興には個人差があり、まだまだ苦しんでいる人もいます、と。

辛い体験を乗り越えた強いパワーを感じます、海の男もすごいけど、海のおかみさんも、すごい。
生のお話を聞けただけでもこのツアーに参加して良かったと感じました。


 
バスは港へ進みます。
私たちの走っている車道はかさ上げされていますが、地盤沈下の為、
この辺りは満潮になると水がはいってくる状態です。
生活は大変です、それでも皆さん暮らしています。



 
町の中心であったであろう地域は今もほとんど何も無い状態。
「復興屋台村」には時間の関係上寄れず、バスは避難所の中でいちばん最後まで残っていた「気仙沼市民会館」へ。


        


 
まずは中ホールに通され、お弁当の時間。
この日の為に作ってくれた、というお魚中心のお弁当のなんて美味しいこと!お世辞抜きで。
どれ一つとっても美味しいんです・・・愛情なんでしょうね。
包み紙の絵柄は、気仙沼で大漁旗をつくっている菊田染物屋さんのものとスタッフさんが仰ってました。


 
食後は寄席が行われる隣りの大ホールへ移動。ゆるきゃら「ホヤぼーや」がカワイイ。


 
13:30、開場したホールに、わんさかわんさか人が入ってきます。


 
たった1日のこの日の為に、楽しませようと色んな仕掛けを用意してくれています。
2階の「お買い物コーナー」は大混雑!
さあ、ここからが私たちのしごとの時間です。いっぱいお買い物するしごと!



お弁当にも入っていた”絶品”「金のさんま」はとりあえず6個購入。
お取り寄せしますからね、必ず
他にも色々購入したり、参加賞のKUKKA BAGとか色々頂いたり・・・(帰宅後撮影)



さてそうこうしていると14:30、いよいよ寄席の開演です。
最初に糸井重里さんと、気仙沼市長・菅原さん、
気仙沼さんま寄席実行委員会・会長・松井さんからご挨拶がありました。
松井さんの「これだけ大勢の方の笑顔を見るのは久しぶりです」のお言葉が印象的でした。


一席目は立川談修さんの「目黒のさんま」
次はいよいよ志の輔師匠の登場です。

マクラからドッカンドッカン笑わせる師匠、もうそのままの勢いで「親の顔」へ。
私はラッキーなことに最前列で見させていただきましたが、観客の笑い声がすごすぎて、
あの!声の太い!師匠の声が聞こえない瞬間もあるほどの盛り上がり&一体感。
一人一人全員が前を向き、一緒に盛り上げよう!という気迫すら感じる寄席、これは体験したことない・・・

この「親の顔」のマクラで師匠が、
「ラジオで子供電話相談室をやっていた頃”どうして勉強しなくちゃいけないの?なんの役に立つの?”
という究極の質問があった。皆さんはどう思いますか?
色々考えたけど、わたしは、
”どうして勉強するのか。それは人生の中で少しでも多く笑うことができるようにするためじゃないかな”
と思うんです。」と仰っていました。う~ん。


中入り後は「こたつトーク」
糸井さんが「今日は私はお客だからなんとかしろ、という人は一人もいないんです。
被災地域の多人数の受け入れ態勢が十分じゃなくて、どこに宿泊するかも自分じゃ決められない。
さっきも駐車場が泥沼化して車が出せないという方がいらっしゃいましたけど、じゃ泊まってって下さい(笑)
ここに集まってる皆さんはそんなことは承知の上で、気仙沼に来てなにかしたいんです、すごいことですよね。
今日は全員が仕事をしている、みんなが何かしらの役に立ってる会なんです、受身な人は一人もいないんです。」
と仰っていました。
みんなが役に立つ、こういう支援のかたちがはすごくいい、と隣の方と話しました。





トーク後の短い休憩の後、師匠が紋付袴で高座に上がられたので「もしかして・・・」と思ったら、
やはり「中村仲蔵」でした。
以前パルコ劇場で見させて頂いていたのですが、何度みても息を呑むすごさです。
今日も多くの方が涙されていました。

なぜ師匠はこの落語会にこの噺を選んだのでしょう?

歌舞伎界のいじめにより五段目の定九郎というどうでもいいような役をふられた仲蔵が、
考え抜いた末新しい定九郎を演じ切り、観客を魅了した。

歌舞伎役者たちは今までの定九郎の、もっさりとした山賊の風体は何かが違う、思っていた。
だけど誰も変えてこなかった、変えようとしなかった。
どう演じるか?それを全力で考え変えた仲蔵は、本物の定九郎を演じた。その姿に客は感動したのだ。

師匠は今後の日本から、より多くの仲蔵が出て来て欲しい、と(表現は違ったような気が・・・)
仰っていました・・・そうか、そういうことか。敬服致しました。


公演の最後は気仙沼のみなさんが中心となって「どや節」を歌い、
記念撮影をし、三本締めで終了。
今日は朝から何度胸が熱くなったことか。
伝説になるかもしれないこの瞬間に参加できた事、感謝です。


        


 
公演終了後は「ちょっとした打ち上げ」
我らがサメコースバス2台は、アーバンという結婚式場?へ移動します。
会場には気仙沼の美味しい海の幸が並んでおりました。


 
そこへ前の会場(一度に入りきれないので)で打ち上げをされていた、お二人が到着。
鏡割りに間に合いました。全員でかんぱ~い


 
南伸坊さんイラストの升は参加者へのお土産です


 
美味しいご馳走を頂いた最後に、地元「浪板虎舞保存会」の方々の舞踊。
この地区に江戸時代から続く伝統行事で、保存会のメンバーは震災で家族や家を失ったものもあり、
ばらばらになりながらも、連絡を取り合って伝統を維持してきたそうです。





最後の最後にまた、泣かされました。
今これをみて感動しない日本人がいるのでしょうか?というくらい生きる力をもらいました。


 
打ち上げ会場にいた全ての人が引き込まれて熱心に見ていました。
気づけばふと横に師匠と糸井さん。同じ空間で同じものを見れる幸せ。



打ち上げ最後の挨拶。
糸井さんがみんなが感動した「中村仲蔵」を話題にすると、師匠は、
「私は材料を言うだけで、1000人全ての人の中に微妙に違う中村仲蔵が存在してくれている。
私がいい材料を話せたとしたら、それはみなさんのおかげです」と。
糸井さんは、
「ぼくはまたここに来ます。必ずしもこんなに面白い毎日じゃないけれど、気仙沼の色んなものが美味しくなったり、
うぇるかむのやり方もどんどん上手になっていくと思います。忘れないでまた来て下さい。
来た人の数だけ気仙沼はあります」と。

最後は師匠の「日本の全ての被災地が、一日も早い復興に向け新しい未来を築けます様祈念いたしまして。」
一本締めで終わりました。

21:00打ち上げ終了後はほぼ日スタッフに見送られ、バスにて東京へと戻り、
長かったようで短い一日が終わりました。
今回熊本から二日掛けてこられた方や、兵庫や愛知方面などなど。
日本全国からお金をかけて気仙沼にやってきた、人のちからってすごい。
こんなに素敵な機会を作ってくださった皆さん、本当にありがとうの思いでいっぱいです。

また、今回参加の多くの方が東北に来たことがなかった、という事実を知り驚きました。
東北人を家族に持つ者として、岩手や宮城や東北のこと、もっと知って欲しい、もっと来て欲しい、
という思いが前より増して強くなりました。


これを読んで下さった皆さんも、東北へ、是非。



気仙沼バンザイ。



おしまい。



ほぼ日刊イトイ新聞3/28号(一部抜粋)

ほぼ日刊イトイ新聞3/26号(一部抜粋)

こちらに詳細な記録があります。気仙沼さんま寄席

ほぼ日イトイ新聞  東日本大震災のこと。

ピーピングしのすけのふしあなから世間: 「気」仙沼の「気」は消せん


キット、ずっとプロジェクト

2012-03-12 | イワテケン

2012.3.11(日)

「新橋駅」へ。



東日本大震災復興支援「さんてつ広場 復興市」が、
新橋駅のSL前で開催されました。



規模は小さいですが、三陸鉄道の歩みや三陸の人々の「今」を伝えるフォトギャラリー、
三鉄の紹介や現状を写真で紹介していました。

>>キット、ずっとプロジェクト


三鉄に対するメッセージを書き込み、掲示するスペース。
このイベントが終わったら、田野畑駅で保存し掲示されるようです。
岩手に縁がなかったら、「三陸鉄道」って何?と思うのも当たり前の、1時間に1本しか走らない、
第三セクターの赤字路線、それが三鉄です。



この日の「三陸案内人」をつとめる阿藤快さん、精力的に動かれていました。
地震発生時刻の14時46分には皆で黙祷。


 
地元の方々による名産品の販売もありました。
8月に帰省した時は宮古市場の半分以上並べられるものが無くて(生鮮品がない)辛かった。
今は少しずつ戻ってきているのかな。




震災後、現実のものとは思えない光景を目にし、元々赤字路線だったから、
再建は程遠く・・・もう二度と走れないのでは・・・と思った。

それなのに、たった1年、この4月1日に久慈駅~田野畑駅間まで開通するという。
なんと頼もしいことでしょうか。

村の人の足でもあるけれど、私達離れた場所に暮らすものの帰省の足としても、
無くてはならない存在の三鉄。今まで当たり前のように運んでくれた三鉄。
予想を超える速さで復興させようとするその頑張りに、東北人のくじけず生きようとする、強さを感じます。

全線開通は2年後の予定です。

>>三陸鉄道

>>三陸鉄道 望月正彦社長

 
その後は「いわて銀河プラザ」でお買い物。
同じように考える人たちでごった返していた店内。

入口にあったこのポスターは「復興の狼煙」
一つ一つの言葉と表情が、心にずしっと響くものだった。

>>復興の狼煙ポスタープロジェクト


地元のお母さんや学生達、みんなの笑顔を乗せて走っていた、三陸鉄道。
岩手に観光に訪れてくれるみんなの笑顔をまた、見たいです。
一歩、一歩、進んでいきましょう。





それぞれの思い

2012-03-11 | イワテケン

震災特番で見る機会が増えた、被災地の方々の今日までのお話。
TVの画面を通して見ているだけでも辛すぎて、苦しくて、胸がつまる。
1年経った今だからこそ、余計につらく感じることもある。

でも目をそらさないで、ちゃんと見よう。涙もかまわず流そう。一緒に考えよう。
まだまだ、被災地の方々にとっては過去のことじゃない。
1年前、たくさん流したはずの涙は枯れることなく今も折に触れ流れてくる。



宮古市・田老町 2011年 8月


あの日の事を思い出す。
津波だけじゃなくて、原発の恐怖もあって右往左往してた1年前。
先の見えない不安もあって勝手なこと、色々言ったりもしたけれど、
自分ひとりじゃ何も出来ないことを思い知らされた。
今まで自分が生きてきた中で培った知識や経験は、何の役にも立たなかったあの日。



宮古市・魚菜市場 2011.8月


東京も余震で揺れていた、放射能の不安と家族の安否の分からぬまま眠れなかった日々。
知識も手段もあても何もなかったけど何か行動を起こさなければいられなかった。
テレビの向こうに映し出される映像に、落ち着いてなんていられなかった。
けれども実際は何も出来ず、力強く生きようとする被災地の皆さんに励まされ、
逆に元気をもらっていた気がする。




2011.8月 宮古市・田老町
できることをしよう。

結局この1年、誰かの力になれるような「たいしたこと」はできなかった。
「たいしたこと」はできないけれど、少しずつならできることもある。
少しずつでも、ずっと、続けていこう。平穏な一日がおくれることに感謝しながら。
同じ時代に生きる日本人として。


絶対に忘れない、3月11日。


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普代村の今

☆2011年3月11日、石巻に単身赴任中被災し、偶然生き延びた甥っ子は、
この4月に東京に帰ってくることになりました。
あちらで学んださまざまなこと、これからの仕事にも生かしていくことでしょう。






キノコの山

2011-11-13 | イワテケン

酸ヶ湯温泉に寄り道してから帰省。


ダンナの実家に帰ると、私の大事な仕事のひとつ「ワンコの散歩」

 
(左から ハナエ  タロウ  チロ クロ・・・?)
8月にはまだかわいかった黒ワンたちも大きくなって・・・
だけど言うこと聞かなくて散歩にならん・・・このまま大きくなったらまずい感じ

残念だったのが私が帰る3日前に、タロウの親のるみ子が死んでしまったとのことでした。

(手前がるみ子)
小屋の前に倒れてたって。夏には一緒に散歩したのに・・
寿命だったのでしょう・・・推定14年くらい。とても賢い子でした、寂しいです。



翌日は義弟くんとキノコ狩りへ

 
シイタケ・ナメコ

 
大きな平茸

キノコ狩りなどしたことのなかった私は大喜び
さあ、次の場所へ移動しよう、と作業道を歩いていたときでした。

「ガサガサ・・ガサッ」

重たい音がして、前を行く義弟くんの足が止まり、次の瞬間二人で息を飲んだ。

「でたっ  ク・・・クマ」



しっかりとした大きさの真っ黒いヤツ(多分ツキノワ)が右の斜面から降りてきて、道を横切り、
左の斜面へと・・・

「こっちへ来ちゃダメだー」と大声をだして居場所を知らせる義弟クン。
「私たち二人だから大丈夫だよね?」と意味不明な発言のワタシ。
ただただじっと、通る過ぎるのを見つめていただけの二人でした。
カメラ、首からぶら下げてたのに写真を撮る、という行為ごと忘れてた
(この写真の矢印の先辺りにクマが行ったときに思い出してパチリ
いざという時はやっぱり動けなくなるものなのね・・・
クマ鈴持ってたのに油断して付けていかなかったから・・・登山道で鈴つけて、肝心なところで・・・



さすがに怖いので今日はこれで終わりにし、家に帰ります。
義母さんと留守番をしていたダンナに「くまに会いました」と報告。
この地域は昔からクマと共存している。トウモロコシやスモモも食べられちゃうし、
×○コも作業道でしょちゅう見かける。
でも地元に住んでいながら、義弟くんも義母さんも過去数十年で1,2回しか遭遇していない。私は二度目。
「やっぱりもってるなーーー義姉さんは
と義弟クンに言われてしまった・・・アハハ・・・ハ


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翌朝、「午前中ならクマはまだ活動していないから大丈夫だ」
というよく解らない理由で義母さんから励まされ懲りずにまた山へ。
犬を連れて行きたかったのだけど、どうも今のワンたちはキノコも食べちゃうらしい・・コマッタモンダ・・・


登山道などありません、自分の山ですから自由に登って行きます(わたしは一人では歩けませんけど)

 
なんてキレイな森 手付かずの自然林。
遠くへ紅葉探しに行く必要などなく、自分ちの山が一番きれいだったりして・・・

 
名もなき400mピークからは、青く輝く三陸の海がみえる。



見下ろす森は色とりどりの毛糸だま。



この時期に来たことなかったけど、こんなにキレイだったんだね。



巨大な朴葉


 
2時間近く歩くも、残念ながらさすがにもうM茸ちゃんには会えず、収穫ゼロ。



でも思いがけず紅葉を満喫した、キノコの山歩きでした


東北の旅、まだ続きます。







支援のかたち

2011-10-20 | イワテケン

3.11東日本大震災の時に、偶然ネット上で出会って個人的に支援をしていた、
宮古市の”ふれあいステーション・あい”さんから、定期的にお便りが届くようになりました。

先日頂いたお便りの中に、
「せっかく頂いた支援物資も刻々と変わるニーズの変化に、
被災者に届けられずそのまま倉庫に眠ってしまうこともある。
また、皆様から頂いた多くの支援物資は、支援者の皆さんが生活する地域で購入されるケースが多く、
無料で被災者のもとに届いています。」

「その事から被災地以外から支援物資を頂くのではなくて、
~被災者だけではなく地域ごと支援する方法~として、
被災地の商店から商品を購入し、支援物資として仮設住宅や一時避難住宅利用者で
生活する方々へお届けする活動を始めました。」

と書いてありました。



(2011.7月 宮古市内にて)

【必要な物を必要な分だけ地元のお店から買って届ける】
わたしが東京で物資を購入し、それを送っていたのでは、被災地は活性化しない。
今はもう流通しているのだから、本当に必要なストーブやこたつ、毛布など、地元のお店で買って、
必要なものを皆さんに届けられたら、それは被災地の復興・自立への手助けになるのでは

これはいいと思い、早速今度は支援金を寄付することにしました。


被災地域の商店は、再建しても思うように商品が売れないのが現実のようです。
このような方法ですこしでもお世話になっている岩手の皆さんが笑顔になれれば。

個人でも出来る支援のかたちはいろいろ。これからも地道に応援し続けますよ



特定非営利活動法人「ふれあいステーション・あい」さん




岩手よいとこ

2011-08-26 | イワテケン


三陸といえばリアス式海岸。



ダンナの実家近くの景勝地「北山崎」
20数年前、初めてダンナの実家に来た時に連れてきてもらった場所です。



田野畑村にある「北山崎」は「自然資源・海岸の部」で国内で唯一、
最高ランクの特A級に格付けされた景勝地です。



しばらくぶりに訪れたら、展望台もりっぱなウッドデッキに変わっていました。


第二展望台までの道は整備され、ウッドチップなど敷き詰められ、
子供から高齢者まで楽しめるところになっていました。



高さ200mもの断崖に、太平洋の荒波洗う奇岩怪石。
大小さまざまな海蝕洞窟と、ダイナミックな海岸線が約8kmにもわたり続きます。
展望台から望むその姿は、さながら一服の絵画のよう。



晴天時はもちろんのこと,断崖の端が靄(もや)に隠れる雨天時の姿もまた一興。
展望台から断崖直下の波打ち際まで続く718段の階段もあり、
汗を流してこそ得る絶景を独り占めすることもできます。
(田野畑村HPより引用)

※波打ち際までの急階段は現在震災の影響で落石・崩落箇所があり通行不可です。
ちなみにこの718段の階段は、山に親しんだ人でも息切れ必須です(私だけ?)


 
この迫力と手付かずの自然が多く残る場所、是非五感で感じていただきたいです。


ここと”龍泉洞”は北東北の観光スポットとして、夏は多くの観光客で賑わう場所でした。
震災の影響、電車、道路の不通の為に今年のツアー観光客は多分・・・?
北東北は放射能の影響もほとんどない安心な地域。
山好きの皆さん、早池峰山に来られる際は是非、足を伸ばして三陸のダイナミックな海の景色も見ていってください~

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実家に戻ります。


ダンナの家に毎年この時期咲いている花。
百合だと思っていたら彼岸花の仲間だって、今年初めて知りました(カルディナさんより




そして・・・7月にはこんなワンコも生まれてまして・・・今約一ヶ月でこんなに大きく。



双子?
ヌイグルミみたいな可愛さがたまりません



この子らの親のハナエです。




 
昔からいる私の大の仲良し、タロウ。そしてその母のるみ子。
結構な歳ですが、今年も元気でいてくれました。


双子ちゃんの名付けのチャンスを与えられたので、「オキ&トマ」「マリオ&ルイジ」「サブローシロー」
と言ってみたものの・・・全て却下(笑)

義兄ちゃんが日本人らしい古風な名前をつけるような感じでしたけど?
そんな名前じゃ合わない大人になりそうな予感が・・・


この子達の親をみんなで考えていたら、(熊じゃないかというウワサも有)意外な事実が判明 


判定は数ヵ月後になるのでしょうか・・・楽しみです





偲ぶ夏 2011

2011-08-24 | イワテケン

2011年のお盆は特別な帰省となりました。

前回時間がなくて廻れなかった、どうしても見ておかなければならない場所へ。


まずは「普代浜」
海岸線の国道を歩いている写真ですが、右手の木々の色が変っているのが見えますか?
津波は正面からあの高さまできていたのです。
自分の身長の10倍もの黒い波、恐ろしいです。



浜の形はすっかり変っていました。


あれから5ヶ月、ずいぶん片付いているようですが・・・。
ダンナが子供の頃良く遊んだ浜ではなくなっていました。


海側から「普代水門 15.5m」を見た様子。
津波が来る前、浜からはあの水門ははっきり見えなかったのです。
がれきのあたりは一面松林、公営プールやキャンプ場がありました。


今回手元の写真を探しましたが、案外撮っていなかったようです。
少ない中から何枚か懐かしい写真が出てきました。
これは約20年前の賑やかな海水浴場だった普代浜の写真。
海の青さはかわっていませんね。


続いて「太田名部漁港」へ。

 
普代村は人的被害がほとんどなかったので、復興が早いように感じます。
漁港はちょっと見た目では普段と変らない感じにまで整備されていました。
ただ、食堂などは跡形もなく流され、公衆トイレだけがあの日のまま残されていました。
ここの食堂の「めかぶラーメン」美味しかったなぁ。


これが和村村長が「明治津波以上の高さは絶対に譲れない」と築いた「15.5メートルの防潮堤」です。
城壁のようです。

 
今まで昇ったことはありませんでした。
初めて昇ってみると、結構な傾斜だということがわかりました。


この15.5mの防潮堤により、村は助かりました。
と言っても津波の高さや強さなど、ある程度の予測は出来ても”絶対”はないのです。
防潮堤が高かったから助かった、とは言い切れない思います。
たまたまこの海岸線に到達した津波の威力が、他の地域より小さかったから?地形の関係?
本当に色々な偶然で難を逃れたのだろうと思います。

 
防潮堤から続く、神社へも昇ってみました。
こちらは更に急傾斜。思わず手すりにつかまりたくなるようですが、これだけの高さが海からすぐの場所にあれば、
逃げられる可能性は高いのでは?と思いました。


あの日、どんな思いで皆さんここから津波を見ていたのか・・・
あの日のことを思い出して言葉がありません。


(村の広報より)



赤線の中が今回被害にあったエリアです。


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そして更に先へ進みます。
この辺りでは被害の大きかった隣村「田野畑村」へ。
矢印の左方向に希少価値の高い「机浜番屋群」がありました。今はもう跡形もありません。


痛ましいです。


海岸線に立つ「ホテル羅賀荘」も3階まで被害にあい、現在営業不能状態。
被災地域の雇用問題、生活再建問題等急がなければならないことがたくさんあると思います。


あの穴が何か解りますか?


三陸鉄道のトンネルです。北リアス線は久慈駅~宮古駅まで。
久慈方面は野田玉川駅周辺が津波で流出、あとはここ島越駅周辺が流出の為一部区間のみの運転となっています。
村民の足、車を持たない私達の大事な帰省の足はなくなり、平日2往復だけの代替バスしかありません。

ここ「島越駅」は駅舎ごと流されました。
黄色いラインが線路のあった場所、あの高さまで津波に襲われ橋げただけ残り、線路流出。
いかに想像を絶する巨大津波だったかを思い知らされます。

 
在りし日の「島越駅」


破壊された島の越漁港。
駅前の海岸で盆踊りや海水浴を楽しむ家族連れの姿が、つい先日のことのように思い出されました。


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最終日、宮古市田老町の防潮堤へ。

 
万里の長城と言われていた防潮堤(10m)へ昇ってみました。
昇ってみると普代村のそれとは傾斜と高さが全く違う、という事を体感しました。



巨大津波はこの防潮堤を乗り越えた。



漁港側。


車の山



防潮堤内側の震災前


震災後

 
はためく国旗、「頑張ろう田老」の文字。

誰かが言ってた「爆撃を受けた戦後の焼け野原の様だ」
そうかもしれない、と思った。

地震の直後停電したので、津波警報や情報など知る手段もなかった人がほとんどなのでは、と思う。
そして”津波が来るかもしれない”と思っても、海岸線に近いところにいたらどうするのか?
高いところに避難、と頭で解っていても、実際20分以内に上がれる高台はどこにでもあるのだろうか?
今回、被災地域を歩いてみて逃げれることのほうが難しいのでは?と思った。

残念な結果になられた方々は本当に辛かっただろう・・・、と自然に込上げてくるものがありました。合掌。



十数年ぶりに駅目指して歩いたら、どこが駅かわからなくて?
駅舎がなくなっていたのだった。


在りし日の田老駅。津波は駅のホームも超えたみたい。



駅舎はなくても、線路が通じているところだけ1日4本程度、三鉄が走ります。
ここで送ってくれた義弟にさよならして東京へ戻りました。



真の辛さは断片的に見ただけの、よそから来た私たちには絶対に解らない。
ここに暮らす人たちにしか解らない、たった5ヶ月では癒える筈もない深い喪失感と悲しみ。

何か言葉にすると傷つけてしまいそうで、失礼なことを言ってしまいそうで上手く言葉に出来ないけど。
我々が考えるよりずっとずっと、皆さん辛くてたくさん我慢している。

結局ボランティアも何もできず、世話になってる岩手の人々に恩返しも出来なかったけど、
離れて暮らす私達も、せめて1ヶ月に一日でもいいから被災地に思いを寄せよう。
同じ空の下で生きてる、生かされていることに感謝しつつ。
一瞬にして日常がなくなるかもしれないのは、どこにいても一緒。次の一瞬は自分かもしれない。



緑が多くて明るくて、海も空も青くて、美味しいものが一杯あって、人がみんな温かくて親切で。
にっぽんの故郷、大好きな三陸。
いつかまた、ここに活気が戻りますように。

皆さんの笑顔が見たいから、これからも地道な支援続けます。




震災後、4ヶ月

2011-07-18 | イワテケン

三連休は震災後初めての帰省。




十府ヶ浦あたり。


 
線路のあるところだけ走らせてくれている三鉄。実家の駅までは途中が線路流出の為不通。


 
新しく防災無線が設置された実家、変わらぬ愛くるしいしぐさで迎えてくれる犬たち。



ひとつの家もなくなった田老駅前。



 
津波で船が流される映像が何度も映し出された宮古湾。


 
宮古市役所から駅までの道。




なでしこジャパンの活躍、今年一番の嬉しいニュースだったかな!


色んな思いの三連休でした。






さんかげつ

2011-06-11 | イワテケン

2011年6月11日 あれから三ヶ月・・・



昨日、震災後個人的に支援物資を送っていたところからお礼状が届いていた。
礼状なんていいのに・・・と思いながらも、発送できる状況にまで復興しつつある、というのが嬉しかった。

余震もめっきり減った東京は、ほぼ普段通りの生活が戻っている。
でもみんな知っているように、被災地ではまだ水道だって復旧していないところもある。

先日の台風では防波堤が破壊されたために海水がそのまま陸地に上がってくる、
沿岸部では過去に経験のない事態になっている。
これからの台風シーズンは本当に不安、恐ろしくて海岸線を車で走ることも出来ないかもしれない。

まだまだやらなきゃいけないことが山ほどあるのに、政府は・・・と思うのは私だけじゃない。
でもそんな情けない日本政府に対して、文句を言ってるだけじゃ何も進まない。


「今自分に出来ること、ひとつでもいいからやろう。」
そうやってみんなが行動してきたことは、本当に微力で、ありんこくらいの大きさかもしれないけど、
着実に被災地の復興に向けての力になっているはずだと思う。
政府に何かを求めても、待っているだけじゃ進まない。
民間の力、人ひとりの力ってやっぱり大事だと思う!
・・・そう思いたい「震災から三ヶ月目」の日。




LIGHT UP NIPPON 
東北を走るローカル線
がんばろう東北 ローカル線 ご乗車ご支援感謝キャンペーン 住民の足、是非復旧を。
災害義援金受付(宮古市) 
※直接のほうが早く復興に使われる気がするし、損金計上できるので。他各自治体で受け付けています。
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I LOVE 東北!

2011-05-11 | イワテケン

あれから2ヶ月。

この写真は2009年 在りし日の ”三鉄「島の越駅」”からの眺めです。
つい昨年の夏もこの駅からの海を眺めていたのに。




駅から徒歩数十秒の位置にあった海水浴場。
お盆の時期はこの駅前で盆踊りが開催されていた。
浴衣を着た子供達や村の家族の笑い声が、今にも聞こえてきそう。
このあたりも人口が少なく、静かで自然一杯の美しい海の町。

宮沢賢治の童話にちなんで「カルボナード」という愛称がつけられていたこの駅は、
「東北の駅百選」にも選ばれていた、青いドーム型屋根のカワイイ駅舎だった。

あの日から「いつもの駅」は、駅舎ごと跡形もなく姿を消した。


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「三陸鉄道「国の支援なければ、もはや何も…」 読売新聞(2011年4月5日22時06分)

線路はつり橋のように垂れ下がり、駅舎が跡形もなく流された。

東日本大震災の大津波は、鉄道網をズタズタに寸断した。
なかでも、過疎化などで利用者減に苦しんできた自治体出資の第3セクター鉄道は、
経営の厳しさに拍車がかかる。
地元では「地域の足をなくさないで」「国のさらなる支援を」と悲痛な声が上がっている。

がれきの中から高さ約10メートルの橋脚が突き出ている。
上に載っていた線路もホームも津波に流され、今はない。
岩手県田野畑村の三陸鉄道北リアス線・島越(しまのこし)駅の無残な姿だ。

三陸沿岸を走る三陸鉄道(本社・盛岡市)は、北リアス線(久慈―宮古71キロ)と、
南リアス線(釜石―盛36キロ)の計107キロからなる。

(読売新聞より引用)



「カルボナード島越駅」

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もう2ヶ月?まだ2ヶ月。
大好きな第二の故郷、東北・岩手県、応援続けます。

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