「空と山のあいだ 岩木山遭難・大館鳳鳴高生の五日間」田澤拓也著(角川文庫)を読んだ。久しぶりの遭難モノだ。
昭和39年、岩木山で大館鳳鳴高校(秋田)の山岳部員が遭難し、4人が死亡、たった一人しか生還できなかった事件だ。標高も1625m。そんなに高くない山で悲劇は起きた。筆者は、生還した村井氏から貴重な証言を聞き出す。
当時、高校生の彼らは、本格的な冬山の経験もないのに厳冬の岩木山に繰り出す。Mr.Dashもそうだったが、この年代の少年たちは、自分が死ぬことなんて、アタマにまったくない。死ぬはずがないと思っている。彼らもきっと、そうだったに違いない。彼らなりのパイオニア・ワークで胸がワクワクしていたと思う。でも、実力はなく、自然の猛威のもとでは非力きわまりない存在だった。
Mr.Dashが山で死ぬ可能性があると最初に漠然と感じたのは、1989年の10月だった。有名な、立山での中高年8人遭難死の事故の記事を読んだときのことである。
なぜビビッたのか。それは、ちょうどその1年前、同じ10月の体育の日を利用して、立山に登頂していたのだ。ジャージに、薄いウインドブレーカー姿。その時は晴天に恵まれ、雄山でブランデーティーを飲んでいたほど、ナメナメだった。
しかし翌年の新聞記事で、「軽装」と書かれ叩かれた中高年パーティは、我々よりも立派な装備だった。さすがに、背筋が寒くなる思いだった。当時、ツェルトはおろか、きちんとした防寒着すら持っていなかった。靴もローカットの者もいた。今からは、想像もできないが、それがMr.Dashの初の北アルプス3000m峰の登頂であった。全くの初心者と比べてマシだったのは、辛うじて、地図が読めたことくらいだった。
大館鳳鳴高生のメンバーは、死の直前まで、先輩が後輩を、強い者が弱い者をかばっていたという。当時の自分に、そんなことができただろうか。遭難死は絶対にしたくないが、岳友たちと、そこまで強い絆を持つことができたら、本当に、嬉しいことだと思う。
昭和39年、岩木山で大館鳳鳴高校(秋田)の山岳部員が遭難し、4人が死亡、たった一人しか生還できなかった事件だ。標高も1625m。そんなに高くない山で悲劇は起きた。筆者は、生還した村井氏から貴重な証言を聞き出す。
当時、高校生の彼らは、本格的な冬山の経験もないのに厳冬の岩木山に繰り出す。Mr.Dashもそうだったが、この年代の少年たちは、自分が死ぬことなんて、アタマにまったくない。死ぬはずがないと思っている。彼らもきっと、そうだったに違いない。彼らなりのパイオニア・ワークで胸がワクワクしていたと思う。でも、実力はなく、自然の猛威のもとでは非力きわまりない存在だった。
Mr.Dashが山で死ぬ可能性があると最初に漠然と感じたのは、1989年の10月だった。有名な、立山での中高年8人遭難死の事故の記事を読んだときのことである。
なぜビビッたのか。それは、ちょうどその1年前、同じ10月の体育の日を利用して、立山に登頂していたのだ。ジャージに、薄いウインドブレーカー姿。その時は晴天に恵まれ、雄山でブランデーティーを飲んでいたほど、ナメナメだった。
しかし翌年の新聞記事で、「軽装」と書かれ叩かれた中高年パーティは、我々よりも立派な装備だった。さすがに、背筋が寒くなる思いだった。当時、ツェルトはおろか、きちんとした防寒着すら持っていなかった。靴もローカットの者もいた。今からは、想像もできないが、それがMr.Dashの初の北アルプス3000m峰の登頂であった。全くの初心者と比べてマシだったのは、辛うじて、地図が読めたことくらいだった。
大館鳳鳴高生のメンバーは、死の直前まで、先輩が後輩を、強い者が弱い者をかばっていたという。当時の自分に、そんなことができただろうか。遭難死は絶対にしたくないが、岳友たちと、そこまで強い絆を持つことができたら、本当に、嬉しいことだと思う。