ひろば 川崎高津公法研究室別室

川崎から、徒然なるままに。 行政法、租税法、財政法、政治、経済、鉄道などを論じ、ジャズ、クラシック、街歩きを愛する。

佐賀駅から中心街を歩く(その6)

2013年04月13日 00時42分25秒 | 旅行記

以下は、「待合室」の第351回として2010年2月26日から3月5日まで掲載した記事です。写真の撮影日は2009年8月3日です。内容については一切修正を施しておりませんので、御注意ください。

 

佐嘉神社で参拝を済ませました。境内には大砲が置かれています。

 佐賀藩(鍋島藩)で製造された大砲で、日本で最初の鉄製カノン砲です(但し、復元したもの)。

 御存知のとおり、江戸幕府は1639(嘉永16)年から鎖国政策を続けてきました。しかし、時は19世紀に入り、イギリスやフランスの植民地活動が活発になってきます。ロシアも東への膨張政策を続けていました。1808(文化5)年にはフェートン号事件(同名のイギリス軍艦がオランダ船を追って長崎港に侵入し、オランダ商館員を捕えるなどの狼藉を働いたという事件)が起こります。そこで、鍋島直正が藩主に就いてからこの大砲が製造されたのです。佐賀藩ではペリーの来航より前から砲術の研究が進められており、1850年代には火薬の製造も始められています。また、反射炉の建設も進められ、1850(嘉永3)年には築かれていました。

 大砲のそばに、上の写真のような説明板があります。大砲(「太砲」と書かれています)の鋳造に関わった人々、鉄の精錬に関わった人々の名前が記されており、とくに東芝、川崎造船所の創立者の名前が目に付きます。日本の科学技術の原点を見るような思いがします。

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佐賀駅から中心街を歩く(その5)

2013年04月13日 00時13分32秒 | 旅行記

 以下は、「待合室」の第350回として2010年2月19日から26日まで掲載した記事です。写真の撮影日は2009年8月3日です。内容については一切修正を施しておりませんので、御注意ください。

 再び佐賀市に戻ります。しらやま商店街から南へ歩き続け、堀を渡り、公園のようになっている場所を歩きました。すると、佐嘉神社に着きました(佐賀は、かつて佐嘉と記されていたこともありました)。

 私はよく神社に行くのですが、詳しい訳ではありません。佐嘉神社も、場所を知らなかったばかりか、存在することも知らなかったのですが、かなり大きな神社であることがすぐにわかりました。佐賀県で最も大きな神社なのでしょうか。

 佐賀県と長崎県はかつての肥前国、佐賀市は鍋島藩の城下町です。肥前国からは明治政府の建設および発展に貢献した人々が多く輩出されました。上の7人はその代表的存在です。但し、明治政府の方針に不満を持つ人も少なくなかったようで、江藤新平は1874(明治7)年に佐賀の乱を起こして処刑されていますし、大隈重信は明治14(西暦1881)年の政変で一旦下野し、立憲改進党を組織しており、副島種臣は征韓論を主張してやはり一旦下野しています。もっとも、大隈は伊藤博文内閣および黒田清隆内閣で外務大臣となっておりますし、内閣総理大臣に二度就任しています(二度目に第一次世界大戦への参戦を決定したということです)。また、副島は枢密顧問官や内務大臣を歴任しています。

 1871(明治4)年、廃藩置県が行われました。この時には現在よりもはるかに多くの県が置かれており、佐賀県もその一つでした(当初は伊万里県と称していたようです)。しかし、各地で県の併合や分離が繰り返されます。佐賀県もその一つで、県が置かれて程なく、長崎県に併合されます。分離独立の上で再び佐賀県が設置されたのは1883(明治16)年のことです。九州では、他に宮崎県が鹿児島県に併合され、分離独立したという歴史があります。

 このような例は他の地方にもあります。代表は香川県でしょう。同県は高松県と丸亀県が合併して成立したにもかかわらず、すぐに徳島県と合併して名東県となり、2年後に分離して再び香川県として独立したのですが翌年には愛媛県に併合されます(徳島県は高知県に併合されます)。香川県の再分離は1888(明治21)年です。また、奈良県も一時期は堺県に併合されていました。

私が訪れた時にはほとんど参拝客がいなかったのですが、初詣の時期などには多くの参拝客が訪れるのでしょうか。

本殿に入ります。これから参拝をします。

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