今日(5月27日)の朝日新聞朝刊4面14版に「憲法を考える 自民改憲草案 義務・下 国民にも『尊重せよ』何のため」という記事が掲載されています。
国民主権や立憲主義などの意味を踏まえた良質の連載記事ですが、今回もその良さを認めつつ、「足りない」と思われる点を補充しておきます。
それは、長いタイトルに示した通りです。こんなことを書いたら命(様々な意味での)に関わるかもしれませんが、書かざるをえません。自民党の改憲草案は、他の条文案の意味などを脇に置いておくとしても、第102条という一条文案の規定により、国民主権を定める憲法草案として破綻しており、無意味なものになっているのです。換言すれば、国民主権主義の憲法としては自殺しているようなものです。それこそ、日本国民が尊重するに値しない憲法の草案となってしまったことは否めません。
国民主権とは、国家に関する最終的決定権を国民が有するということを意味します。これは、憲法改正についてとくに妥当します。国民主権主義であるからこそ、憲法改正について国民が最終決定権を持つのです。従って、国民に憲法尊重義務が課されないのは、常識以前の当たり前の話です。仮に憲法尊重義務が課されるとするならば、国民は憲法改正に関する決定権を有しないということになり、国民主権の自殺行為を明示していることとなります。何のために国民主権原理を採用するのか、全く意味がわからなくなります。
憲法を尊重する義務を国民に課すのは、君主主権憲法のやることです。大日本憲法の前文は最後に「朕カ在廷ノ大臣ハ朕カ為ニ此ノ憲法ヲ施行スルノ責ニ任スヘク朕カ現在及将来ノ臣民ハ此ノ憲法ニ対シ永遠ニ従順ノ義務ヲ負フヘシ」と記しています(下線は引用者によります)。主君が自らの権限行使のために憲法を定めたのですから、臣下は憲法を尊重し、さらに遵守することは当然です。何しろ、憲法とは国家体制の基本的枠組みですから。
日本国憲法第99条が「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。」と定めるのは、この規定に掲げられた職務の人々が国民から委任なり委託なりを受けて日本国の統治や行政などにあたるからであり、憲法違反の行為によって国民に対して不要な権利侵害などをする可能性が高いためです。とかく権力は濫用されるものであり、そうして国が破滅します。馬鹿を見るのは、いや、表現が適切でないので言い換えるならば犠牲を負うのは、国民なのです。公務員と国民を混同してはいけません。いかに国民主権であるとはいえ、国民は、直接的に権力なり権限なりを行使することができません。
国民に対して憲法尊重義務、それどころか憲法擁護義務を負わせる憲法としては、ドイツ連邦共和国基本法があります。これは、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)の台頭を許してしまったという反省に基づいているものです。そればかりでなく、第1条の規定があるからこそ、「戦う民主主義」の意味があるのです(但し、それでも懸念が表明されることは付け加えておかなければなりません。
第1条第1項:「人間の尊厳は不可侵である。これ(人間の尊厳)を尊重し、保護することは、全ての国家権力の義務である。」("Die Würde des Menschen ist unantastbar. Sie zu achten und zu schützen ist Verpflichtung aller staatlichen Gewalt.")
同第2項:「ドイツ国民は、それ故に、不可侵の、かつ譲り渡すことのできない人権を、世界のあらゆる人間社会、平和および正義の根拠として認める。」("Das Deutsche Volk bekennt sich darum zu unverletzlichen und unveräußerlichen Menschenrechten als Grundlage jeder menschlichen Gemeinschaft, des Friedens und der Gerechtigkeit in der Welt.)
同第3項:「以下に掲げる基本権は、直接に通用する権利として、立法、執行権および司法を拘束する。」(Die nachfolgenden Grundrechte binden Gesetzgebung, vollziehende Gewalt und Rechtsprechung als unmittelbar geltendes Recht)
また、基本法第20条第2項第2文および第3項は法治主義原則を定めています。ここからわかることは、憲法尊重義務ないし憲法擁護義務は、当然のように国家権力に課されているのです。基本法の規定の構造からして、国家権力にこそ憲法尊重義務ないし憲法擁護義務が第一に課されていることがわかるのであり、ここに注意しなければなりません(そして、これこそが当たり前のことなのです!)。
それに対し、国民の憲法擁護義務は、例えば意見表明などの自由を定める第5条の第3項、結社の自由を定める第9条の第2項など、個々の基本権規定において定められています。やや一般的な規定として、基本権喪失(Grundrechtsverwirkung)を定める第18条がありますが、この規定も包括的ではなく、濫用されることによって喪失するとされる基本権を個別的にあげています。例えば思想・良心の自由や信仰の自由を定める第4条については、憲法尊重義務も定められておりませんし、第18条においてもあげられていません。
ついでに記すと、日本の政治家は概して法治主義の意味について知らなさすぎます。私は、このようによく講義で言います。法治主義原則をドイツ語で記すとRechtsstaatsprinzipですが、日本語で「法(治)」と訳されているRecht(中性名詞)は、法、権利のいずれをも意味します。つまり、訳そうと思えば「権利国家原則」とも訳しうるのです。また、Rechtは正義をも意味します。権利をsubjektives Recht、法をobjektives Rechtというのは、おそらく、権利は主観的な正義、法は客観的な正義、ということなのでしょう。フランス語のdroitもRechtと同様の言葉であるそうです。
(さらに余計なことを記しますと、日本の学界でsubjektives Rechtを「主観的権利」と訳すことが少なくありませんが、これはおかしな訳語です。「主観的権利」があるなら「客観的権利」があるはずですが、実際には「客観的権利」という言葉は使われません。そのためなのかどうかわかりませんが、objektives Rechtを「客観的法」と訳すこともあるようで、おかしさが倍増されています。「主観的法」というものがあるのでしょうか。どのようなものか教えていただきたいものです。)
日本の改憲草案がドイツの基本法などをどこまで参照したのかはわかりませんが、仮に参考にしたとするとあまりに不十分である、という言葉では足りなさすぎます。不十分という領域にすら達していないからです。
憲法を尊重するのは当然である、という趣旨の意見があるようです。しかし、そうであるならば、わざわざ尊重義務を課すようなことは必要ありません。国民が自発的に尊重するからです。逆に、憲法が尊重義務を国民に課すことは、国民がその憲法を尊重するに値しないからこそ、国家が尊重する義務を国民に負わせていることを意味するのです。尊重するに値するなら、義務付ける必要など全くないからです。
さらにわかりやすく記すならば、その憲法を国民が尊重するに値しないからこそ、国民に尊重義務を課す必要があります。
単純に、国民が選挙の際に議員を選ぶための道具にすぎない、選挙の時以外は国民は支配の対象にすぎない、というのであれば、国民の憲法尊重義務も理解できますが、これでは国民主権を謳う必要はなく、思い切って君主主義憲法に変えればよいだけのことです。その意味においても、改憲草案は不徹底に過ぎ、中途半端なものであると評価せざるをえません。
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