ひろば 川崎高津公法研究室別室

川崎から、徒然なるままに。 行政法、租税法、財政法、政治、経済、鉄道などを論じ、ジャズ、クラシック、街歩きを愛する。

川崎市の標高

2012年01月22日 19時03分39秒 | 日記・エッセイ・コラム

 川崎市では、ホームページで「市内の標高」を紹介しています。市内各所にある水準点と、その標高がわかるようになっています。

 NHK総合テレビのニュースを見ていたら、相模湾で10メートル級の津波が発生したら平塚市はどうなるかということをコンピューター・グラフィックで再現したという話題が出ていました。そこで、川崎市の標高が気になったのです。見てみることとしました。

 川崎市高津区は、次のようになっています。

 41番:坂戸1丁目18番地1号(坂戸小学校) 12.5509メートル

 60番:向ヶ丘1-3(上作延保育園) 45.381メートル

 80番:二子5丁目14番5号(高津消防署) 14.0098メートル

 81番:諏訪3丁目16番48号(諏訪神社) 不測

 82番:二子1丁目4番1号(二子神社) 13.0394メートル

 83番:溝口4丁目19番1号(高津小学校) 14.3377メートル

 84番:溝口2丁目29番1号(宗隆寺) 14.4590メートル

 85番:下作延5丁目1番10号(津田山保育園) 14.9256メートル

 また、先に紹介した頁では、各水準点の「水準点の経年成果」が示されています。ミリメートル単位ではありますが、毎年高くなったり低くなったりしています。

 地図を読んでいただければおわかりになると思いますが、川崎市は東京湾に面しております。内海と言えるでしょう。しかし、どこが震源になるかが決まっている訳ではありませんから、東京湾で津波が発生するかもしれません。少なくとも自分が住んでいる所の標高くらいは知っておいたほうがよいと思ったのです。

 津波が発生すると、おそらく多摩川を逆流するでしょう。丸子橋の近くに調布取水堰がありますので、ここまでは確実に逆流します。その先に第三京浜道路の橋梁、さらに先に二子橋があります。どこまで勢いを保ちながら津波が押し寄せてくるでしょうか。

 私が住んでいる場所の標高は、83番や84番からして14メートルほどであるとわかりました。少し歩けば下作延や久地で、高台があります。登ったりすることができるかどうかわかりませんが、84番のすぐ南側は丘になっています。

 どれくらい役に立つかどうかは別として、自分が住んでいる場所の地形を頭に入れておけば、避難などの際によいかもしれません。

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パソコン用眼鏡を使っています

2012年01月21日 10時09分42秒 | 写真

 仕事柄、パソコンをよく使っています。自宅ではVAIO、講義の時などはMacBook Airです。仕事などには欠かせない道具なのですが、やはり目を酷使します。ドライアイになりますし、疲れもたまります。画面から出る光の波長などのせいでしょう。

 今年になってからの或る日、パソコン用の眼鏡があるという話を聞きました。どこで売られているかを調べると、J!NSにあるといいます。うちから一番近いのが二子玉川のライズにある店なので、行ってみました。

 3990円であったので、私の分と妻の分を一緒に買いました。私のフレームは黒、妻のフレームは赤です.他にも何種類かの色が用意されています。度は入っていません。

 軽く、非常にかけやすいので、楽です。パソコンのディスプレイなどから発せられる光をどのくらいカットしてくれるのか、効果のほどはわかりません。しかし、そのことを抜きにして、普段、例えばファッション感覚で使用するのもよいでしょう。

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川崎市を語るのに欠かせないもの

2012年01月19日 00時25分29秒 | まち歩き

 川崎市の歴史を語るには、二ヶ領用水を欠かすことはできません。私が小学生であった1970年代後半に川崎市立の小学校で使用されていた社会科の教材においても、二ヶ領用水は重要な位置を占めていました。

 高津区に生まれ育った者として、二ヶ領用水は色々な意味において忘れてはならない物です。本来であれば、歴史を語らなければならないのですが、郷土史の素人である私が語るには躊躇します。そこで、今回はとりあえず、今年の1月2日、妻と溝口神社へ初詣に行った際に撮影した写真を掲載しておくこととします。

(OCNブログからgooブログへ移行する際に写真データ消失)

 溝口2丁目と3丁目とを分ける所にかかる橋です。2丁目側から撮影していますので、奥が3丁目ということになります。

(OCNブログからgooブログへ移行する際に写真データ消失)

 この橋の名称を記録していなかったので、機会を見つけて確認しておきたいと考えております。左側が溝口2丁目、右側が溝口3丁目です。どちらも静かな住宅地ですが、旧大山街道はすぐ近くです。

 旧大山街道の方角で撮影しましたので、右側が2丁目となります。左側の道路を通り、旧大山街道との交差点を左折すれば、旧高津村役場、現在の大山街道ふるさと館はすぐです。川崎市の高津区を初め、中原区や多摩区の歴史を知るために訪れるべき場所です。

 二ヶ領用水は、江戸時代、農業用水として建設されました。多摩区の宿河原に始まり、高津区、中原区、幸区を通ります。かつての橘郡の村々を支えるために重要な役割を果たしました。

 小学生の私は、自転車でこの二ヶ領用水のそばをよく走りました。高津区の坂戸、二子、溝口、中原区の上小田中、宮内、等々力、小杉御殿町などです。川崎市と言えば、石油コンビナートと公害というくらいで、この二ヶ領用水もドブ川と化していました。異様な臭いが立ちこめることもありましたし、何よりも水面を見ているだけで汚いことがすぐにわかりました。当時の私は、ここに魚が棲むことなどありえないと思っていたのです。

 それが、1980年代になってから徐々に変わってきました。今では魚が泳いでいます。きれいな水流となったのです。何匹もの鯉が泳いでいます。ヘドロまみれの川であったことが信じられないくらいです。

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都営三田線西台駅で

2012年01月17日 23時24分10秒 | 写真

 東急3000系です。目黒線用で、都営三田線、東京メトロ南北線および埼玉高速鉄道線への乗り入れのために製造されました。東急で初めて集中式冷房装置を採用した系列であり、また、JRの車両などと基本設計を共通とする点でも初めての車両となります。

 西台駅のすぐ北側に車両基地があるため、乗務員の交代はこの駅で行われます。ちょうど、運転士の交代が行われているところでした。

 三田線は、現在、ワンマン運転を行っています。また、全駅にホームドアが設置されているため、ATOによる自動運転となっています。これに対し、東急目黒線はTASC制御となっています(ワンマン運転、ホームドアの設置は三田線と同じです)。

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NEX-5で撮影してみました

2012年01月16日 07時12分16秒 | 写真

 高津駅1番線に停車中の大井町線B各停(田園都市線の二子新地および高津に停車する各駅停車)です。9000系の9002Fでした。

 9000系は、9007Fを除き、長らく東横線で運用されていましたが、最近は次々と5両編成化されて大井町線に転用されています。元々は地下鉄南北線乗り入れを考慮に入れたものでした。

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宮益坂下交差点から渋谷ヒカリエを

2012年01月15日 11時37分13秒 | まち歩き

今年の4月26日にオープンする予定の渋谷ヒカリエです。もう、建物はほぼ完成しているものと思われます。

かつての東急文化会館です。

この交差点の下には、田園都市線、半蔵門線、副都心線の渋谷駅があります。そして、この駅に東横線が乗り入れてきます。

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いよいよ今年! 東横線渋谷駅(2)

2012年01月13日 22時55分38秒 | 写真

 あと少しで、現在の東横線渋谷駅が使用されなくなります。今日は、渋谷は常盤松の國學院大學で講義をしてきましたので、帰り道、歩道橋の上から渋谷駅を撮影してみました。

 幼い頃から東横線をよく利用した私にとって、渋谷駅と言えば東横線の渋谷駅でした。その概観は、何十年もの間、親しみ深いものでした。1階にある改札口が南口で、東横のれん街につながっています。また、西側に山手線の渋谷駅の南口があります。

 駅に止まっているのは5000系です。東横線用として登場したのは5050系ですが、田園都市線用として登場した5000系も何本かが8両編成で東横線を走っています。また、今でも9000系(主力でした)を見ることができますが、大井町線に多くの編成が移っています。数年前までは8000系も走っており、東横線から引退した日には多くのファンであふれかえりました。

 渋谷警察署の前、国道246号線と明治通りとの交差点の上から撮影しました。上を通るのは首都高速3号渋谷線です。国道246号線と六本木通りとの交差点もこの近くにあります。

 今、何と言っても渋谷駅東口の最大の話題はヒカリエでしょう。今年の4月下旬にオープンしますが、建物はほぼ完成しているようです。かつて東急文化会館があったところで、地下の映画館「パンテオン」、五島プラネタリウムなどが有名でした。パンテオンといえば、年越しのジャズ・コンサートが行われたことがあり、中学生であった私も行ったことがあります。12月31日の夜10時に開始し、1月1日の朝7時に終わったのでした。

 東横線と副都市線との直通運転が開始されると、現在の渋谷駅は廃止されます。そして、この交差点の右側(かすかに工事現場が見えます)の地下5階にあり、現在は副都心線の駅として使用されている渋谷駅から東横線が発着します。明治通りの下を通ることになる訳です。田園都市線・半蔵門線との乗り換えは楽になりますが、山手線などとの乗り換えには不便になるかもしれません。

 東横線渋谷駅が地下に移動すると、非常に気になるのは東急百貨店東横店です。この建物もかなり古いので、建て替えたりするのでしょうか。どこかで聞いた話では、銀座線の渋谷駅も移転するというのですが。

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合田寛『格差社会と大増税 税の本質と負担のあり方を考える』に書かれている民主党批判

2012年01月09日 21時15分11秒 | 本と雑誌

 やはり2011年の大晦日に青葉台で買った本ですが、今度は、桜井良治『消費税は「弱者」にやさしい!』(言視舎)、および土居丈朗編『日本の税をどう見直すか』(シリーズ現代経済研究、日本経済新聞出版社)とは全く反対の立場のものです。

 合田寛『格差社会と大増税  税の本質と負担のあり方を考える』(シリーズ「民主的改革のための経済学」⑤、2011年、学習の友社)

 実はまだ読み終わっていませんが、かねがね、私が思っていたことが書かれていましたので、ここで紹介しておきます。

 妻とも話すのですが、民主党政権になってから、税制大綱を初めとして税制の政策決定過程がよくわからないものとなってしまいました。自民党政権時代であれば、大まかに政府税調→自民党税調→内閣という図を書くことができました。しかし、民主党政権になってから、どこがどのような審議を行って政策を決めていくのか、非常に見えにくくなっています。

 〔どうでもいいことかもしれませんが、平成24年度税制改正大綱は財務省のホームページに掲載されており、平成23年度税制改正大綱は首相官邸のホームページに掲載されています。〕

 この民主党の政策決定のわかりにくさは、おそらく政治学関係などで指摘されているはずですが、合田寛氏も取り上げており、先に紹介した本で批判しています。

 「民主党はかねて自民党政権時代の税の決定プロセスが、政府税調や党税調などがかかわり複雑で、透明性に欠け、責任の所在が明確でないとして批判していました。そのために政権獲得後は旧政府税調を廃止し、政治家だけからなる新政府税調を設置し、税制改革のプロセスを一本化し、責任を明確にするとともに、税の決定過程を透明にすることとしました。」

 これは合田氏の著作の49頁に書かれていることです。2009年の政権交代後のことを思い出しました。政府税調の形を一新し、党税調を廃止したはずなのです。ところが、党税調は実質的に復活します。それが「民主党税制改革プロジェクトチーム」です。これ自体はまだよいのですが、その後、党にいくつかの政策調査会ができ、政府には◎◎会議とか△△検討会などが設置されています。合田氏は、50頁で次のように述べています。

 「『一体改革』(―社会保障と税の一体改革。引用者注)に関する政府案が決まったときには、党側は社会保障と税の抜本改革調査会と税制改革PTは合同会議を開き、政府案に注文をつけたことに見られるように、党と政府の間に深刻な意見の対立もあり、政策決定の一元化は図られていません。

 このように民主党政権は、税の決定は政府税調に一本化して、透明化を図り、責任の所在を明確にするという当初の公約にもかかわらず、政権についたとたんに、政府や党内にいくつもの税制審議機関を設置し、それぞれが税の決定に関わっていることから、国民の目から見れば自民政権時代以上に、不透明であり、責任の所在もまったく不明確と言わねばなりません。」

 これで私の頭も多少はすっきりしました。党内、政府内にあれこれの会議などを設けて、それぞれが税制に関係する審議をしているのであれば、意見もまとまりにくいでしょうし、外から見ていてどこが何をやっているのかわかる訳がありません。

 さらに、合田氏は、52頁で次のように記し、民主党政権を批判します。長くなりますが、重要と思われますので、引用させていただきます。

 「国民の声を聞くという点では自民党政権のほうが熱心でした。旧政府税調はこれまでの税制抜本改革の折々、全国各地で地方公聴会を開催し、国民の声を聞き対話する姿勢を示してきました。中曽根内閣の抜本改革のときには、抜本改革の基本方針に関して全国4ケ所で公聴会が開かれ(1986年)、さらに売上税導入をめぐる混乱の折(1988年)、25回もの地方公聴会が開催されています。小泉内閣の税制抜本改革のときには政府税調の審議と並行して、『税についての対話集会』が2002年から03年にかけて計16回、全国各地で開かれたことは記憶に新しいことです。

 ところが民主党政権はこれまで一度たりとも国民の声を聞き、対話しようとする姿勢を見せたことはありません。もし民主党政府が掲げる『公平・透明・納得』というスローガンが本当なら、政府が決定した『社会保障と税の一体改革成案』を国民に示し、国民の声を聞き対話する場を積極的に設けるべきでしょう。」

 野党時代の民主党は、国民の声を聞こうとする姿勢が強かったように記憶しています。そうでなければ、2009年8月30日の衆議院議員総選挙で圧倒的な勝利を得られなかったはずです。ところが、政権与党となってから、変質したのか、まだ与党になりきれていないのかわかりませんが、国民の声を聞こうとする姿勢に乏しいという気はします。その意味で、合田氏の指摘は正当と思われます。実際、小泉政権時代に、あれこれの批判は受けながらも行われてきたタウンミーティングのようなものは、民主党政権になってから行われていないのではないでしょうか。寡聞にして知りませんが、インターネットを利用して行われるパブリック・コメントだけでは不十分です。

 以下は余談ですが、民主党政権の以上のような状況が、橋下徹氏の大阪都構想などにどこかでつながっているように思えてならないのです。昨年秋の大阪市長選挙では橋下氏が圧勝しましたし、その前の大阪市議会議員選挙などでも過半数を制する勝利を得ました。それは、既存の大政党(民主、自民、公明、社民、共産)のいずれもが、国民の声を聞こうとする姿勢を示していないことに由来します。しかも、大阪市長選挙の後、あれほど橋下氏に敵対していたはずの既存の大政党のいくつかが、橋下氏や大阪維新の会に擦り寄る姿勢を見せています。茶番なのか変節なのかわかりませんが「みっともない」とすら評価できます。あるいは短期的成果しか見えていないのかもしれません。

 大阪都構想を受けて地方自治法の改正を検討するとした政府の姿勢は「地方に媚を売っているのか」とも思われますし、もっと言うなら「地方になめられている中央の情けない政治の実情」とすら思えてくるのです。中央よりも地方のほうが発信力が高く、しかも国民や住民の声を(たとえ表面的であろうとも)聞こうとしているのですから。

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再び東急8500系8637F(青帯車)

2012年01月08日 21時24分33秒 | 写真

2011年11月19日に高津駅で撮影した、東急8500系の青帯車8637Fです。今回はデハ8637です。

8500系のうち、8606Fと8642Fは東武線に乗り入れませんが、その他の編成は東武伊勢崎線久喜駅、日光線南栗橋駅まで走ります。

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西鉄2000形の写真

2012年01月07日 23時22分10秒 | 写真

 2004年から、私は毎年、福岡市早良区にある西南学院大学で、法学部の集中講義「税法」を担当しております。2012年も担当する予定です。一週間以上の滞在となりますので、同僚などからは「大変だね」とか「よく続けられるよね」などと感心されたり呆れられたりするのですが(しかも、2007年、2009年、2011年は福岡大学での集中講義も担当しましたので)、7年間の大分大学時代に何度も福岡へ遊びに行ったからでしょう。そして、私が、集中講義そのもの、福岡という都市、そして九州を回ることを楽しみにしているからです。2011年は熊本市と大分市に行きました(妻の実家が大分市にあります)。今、「今年はどこへ行こうか」などと楽しみにしています。

 福岡滞在中は、宿泊場所の関係で、西南学院大学での集中講義の場合は福岡市営地下鉄空港線、福岡大学での集中講義の場合は福岡市営地下鉄七隈線を利用します。しかし、そればかりでなく、必ず西鉄天神大牟田線を利用します。太宰府天満宮に行くため、大橋に行くため、などの理由によります。

 西鉄は日本最大のバス会社でもあるのですが、九州唯一、三大都市圏以外で唯一の大手私鉄でもあります。その西鉄で長らくイメージキャラクター的な存在であったのが、2010年10月17日を最後に引退した2000形です。そこで、今回は、この往年の特急用車両、西鉄最大の名車とも言える2000形を取り上げます。なお、以下の内容は、私のホームページに設けている「待合室」に、2010年9月19日、別室22として掲載し、2010年9月25日に修正し、2010年10月17日に別室17へ移行し、2010年11月28日に掲載を終了したもので、ここに掲載するにあたって修正を施したものです。

 ※※※※※※※※※※

 西日本鉄道、略して西鉄の天神大牟田線から、往年の特急用車両にして西鉄初、いや九州初のローレル賞受賞車両、2000形が引退しました。西鉄は2010年9月13日に発表しており、同年10月17日に最終運行となりました。

 川崎市に住んでいる私は、年に1回は福岡へ行って仕事をする生活を2004年以来続けておりますが、さすがに10月17日に福岡へ行くのは難しかったので、せめて、これまで撮影してきた写真で、ということにしておきます。

 2000形が特急用としてデビューしたのは1973年、その翌年にはローレル賞を受賞しました。当初は2扉車でしたが、途中、8000形のデビューに伴って急行用に格下げされ、3扉車となりました(正面のカラーリングも変更されています)。急行用とは言っても、時には特急として走ることもありましたし、普通として運用されることもありました。6両固定編成で6編成が活躍しましたが、2001年、最初に第4編成(大牟田側から2041-2042-2043-2044-2045-2046)が廃車となりました。その後、2008年に第1編成(2011-2012-2013-2014-2015-2016)が廃車、2009年には第5編成(2051-2052-2053-2054-2055-2056)および第6編成(2061-2062-2063-2064-2065-2066)が廃車となっています。そして、2010年3月のダイヤ改正では定期の運用から外されました。西鉄のサイトでは第2編成(2021-2022-2023-2024-2025-2026)および第3編成(2031-2032-2033-2034-2035-2036)が在籍していると読めるような内容が書かれておりましたが、実際には第2編成のみが運用されていました。同年9月の集中講義の時期にも、この第2編成を何度か見ました。

 私が初めて西鉄天神大牟田線を利用したのは大分大学在職中のことですが、それ以前から、まさにこの2000形の故に、西鉄には関心を持っていました。西鉄と聞くとこの2000形というイマージュがあったのです。そして、福岡へ行く度に天神大牟田線に乗り、2000形にも乗りました。

 最初は、あまり写りがよくないので撮影者の腕がよくわかるという写真です。2004年2月12日、西鉄福岡(天神)駅で撮影した第2編成です。私があともう少しで大分大学を離れようとしていた時期で、この日は太宰府市役所と太宰府天満宮へ取材に行くところでした。

 続いて、2005年9月10日、西鉄二日市駅で撮影したものです。この日は昼に天神で大分大学時代のゼミ生たちと会う約束をしていたのですが、その前に薬院駅から普通電車に乗って西鉄二日市で降り、2000形などを撮影したのでした。上の写真は第6編成のク2061で、6番線に停車しています。特急用であった時代には、正面の窓の下に西鉄の社紋が付けられており、その下のカラーリングも現在とは違っていました。

 この頃は第4編成を除く5編成が活躍していました。3番線・4番線に停車しているのが、最後まで生き残った第2編成のク2026で普通電車の筑紫行、5番線に停車しているのが5000形の急行花畑行です。

 2000形と5000形が並んでいるのを見ると、やはり西鉄の車両の色彩および外観は独特であると感じます。

 5000形は2000形より後、1975年にデビューしており、アイスグリーン(水色)にボンレッドの帯という、他には見られない塗装を施されています。これは、その後、6000形、6050形、7000形、7050形まで引き継がれ、天神大牟田線・太宰府線・甘木線の色となっています。また、5000形の前面は左右非対称で、運転席のある左側だけがパノラミックウインドとなっています。これも他には見られない姿ですが、西鉄では6000形および6050形にも引き継がれました(しかし、7000形および7050形は左右対称に戻りました)。

 一方、2000形の塗装はオキサイドイエローに赤帯と、これも他の私鉄にない色彩です。天神大牟田線では2000形だけがこの塗装であり、目立ちました。一方、貝塚線(かつての宮地岳線)の車両は全てこの塗装となっています。

 そして、2000形の最大の特徴は運転台でしょう。日本の場合、通常は左側に運転台が置かれますが、2000形は中央に置かれています。軌道線であればこのような配置は見られますが、鉄道線、少なくとも新性能車で言うならばあまり例がありません。私は西鉄2000形以外に思い出せません。

 続いて2006年9月9日、西鉄二日市駅で撮影したものです。まずは第2編成のク2021、急行の西鉄福岡(天神)行です。この頃は、まだ600形が残っていたはずです。しかし、700形は撮影日の少し前に廃車となっていました。

第3編成のク2031、やはり急行の西鉄福岡(天神)行です。西鉄二日市駅で普通電車が特急や急行を退避することが多いのですが、この時は普通電車が7番線に停車していません。

 続きまして、2007年9月4日、西鉄福岡(天神)駅から発車しようとする第6編成の急行花畑行です。この日、朝から日田へ行きました。いったん西鉄福岡へ戻り、夕方に雑餉隈へ行きました。特急、急行のどちらも雑餉隈に停車せず、特急は薬院を出ると西鉄二日市まで停まりませんので、西鉄福岡(天神)から普通電車に乗るか、急行に乗って大橋で普通電車に乗り換えるか、ということになります。

 結局、普通電車の津福行(5000形)に乗りました。大橋で急行の待ち合わせをします。その時に来た急行が2000形の第2編成でした。この急行は小郡行ですので、筑紫から小郡までは各駅に停車します。しかも、私が乗っている普通電車のほうが遠くへ行くのです(津福は西鉄久留米の3つ先、花畑の2つ先です)。この急行が西鉄二日市で普通電車に接続するかどうかわかりませんが、不思議な運用だと思いました。

 次は2008年9月7日、西鉄福岡(天神)駅で撮影した第6編成のク2066です。隣には、西鉄のICカード、nimocaを宣伝する8000形の特急が止まっています。この時は甘木へ行こうと思っており、宮の陣で甘木線に乗り換えるために、この急行を利用しました(特急は宮の陣に止まりませんので、西鉄久留米で乗り換えることになりますが、運賃が高くなります)。

 この編成の大牟田側先頭車、ク2061の車内にある、ローレル賞受賞のエンブレムです。左側には停車駅等表示機があります。西鉄は、2007年にも3000形(2005年にデビュー)でローレル賞を受賞しています。

 西鉄2000形は、時に太宰府線でも運用されました。平日朝のラッシュ時、特急や急行が7両編成(快速急行があった時は8両編成も)で運用されるために5000形などの通勤用車両で運行されるのです。本来の特急用である8000形が急行や普通で運用されることもあります。そして、8000形や2000形は太宰府線で運用されることもあります(昼間は5000形や7000形などの通勤用車両です)。

 2009年8月3日の朝、西鉄二日市の1番線に第2編成が到着しました。西鉄二日市で折り返し、太宰府行となります。

方向幕が動きました。太宰府行に乗って終点の太宰府で降り、太宰府天満宮へ向かいます。これも私が毎年行っていることです。この編成が最後まで残るということなど、当時の私は予想もしておりません。

 2000形は特急用として登場し、8000形のデビューとともに3扉に改造されて急行用となったのですが、両端部がロングシートである他は転換クロスシートまたは固定クロスシートのままです。2000形の前の特急車である1000形は、格下げされて3扉化された時に全てロングシートとなったのですが、2000形はそうならなかったのでした。主に急行用として運用され、時には普通電車として、時には特急としても走りました(8000形などの代走として、ということのようです)。

 そして、2010年9月5日、西鉄小郡駅です。この時は、私が愛用しているSONY Cyber Shot DSC-L1ではないデジタルカメラを持っており、そのカメラの性能がいまひとつであるのか、それとも私が使いこなせていないのかわからないのですが、ピントが甘いような写真しか撮影することができず、残念です。花畑発西鉄福岡(天神)行の急行として、2000形で最後まで残った第2編成が到着します。

 私は、既に記したように、2004年から毎年、福岡で仕事をします。西南学院大学法学部の集中講義です。そのために、平均で10日間、福岡に滞在します。2007年と2009年には福岡大学法学部でも集中講義を担当しましたので、福岡の滞在日が増えました。いつも西鉄福岡(天神)駅の近くに宿泊しており、ホテルから西鉄天神大牟田線の電車を見ることもあります。そして、滞在の間に必ず天神大牟田線に乗ります。2010年も利用しました。西鉄福岡(天神)から大牟田まで特急に乗り、大牟田の街を見てからゆっくり帰ろうと思い、新栄町から西鉄久留米までは特急に乗ったのですが、西鉄久留米からは普通電車に乗りました。そして、西鉄小郡で急行に乗り換えます。そこにやってきたのが2000形の第2編成でした。

 大手私鉄で活躍してきた電車には、他の私鉄に譲渡されるものが少なくありません。東急であれば旧5000系、旧7000系、7200系が有名ですが、最近では、2008年に引退した8000系はもとより、今でも田園都市線で大活躍する8500系の一部が長野電鉄や秩父鉄道に譲渡されています。また、東横線、池上線および東急多摩川線で活躍する1000系の一部が上田電鉄や伊賀鉄道に譲渡されていますし、8090系の一部も秩父鉄道に譲渡されています。他にも、東武、西武、小田急、京浜急行、京王、近鉄、名鉄、南海などの車両が地方の私鉄に譲渡されて活躍しています。

 しかし、西鉄は、こうした傾向に対する大きな例外の一つです。軌道線用車両の場合は他社に譲渡されたものもありますが、鉄道線用車両、つまり、天神大牟田線、太宰府線、甘木線および貝塚線を走った車両は、どれも他の鉄道会社に譲渡されたことがないようです。少なくとも新性能車両についてみれば、1000形、1300形、600形、700形、2000形のいずれも、廃車後に他社に譲渡されていません。

 ともあれ、2010年10月17日を最後に、西鉄2000形は天神大牟田線を引退しました。写真か模型でない限り、もう目にすることはできません。私も、2扉車時代については写真でしか知りません。

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