ひろば 川崎高津公法研究室別室

川崎から、徒然なるままに。 行政法、租税法、財政法、政治、経済、鉄道などを論じ、ジャズ、クラシック、街歩きを愛する。

佐賀駅から中心街を歩く(その4)

2013年04月12日 00時24分11秒 | 旅行記

 以下は、「待合室」の第348回として2010年2月5日から13日まで掲載した記事です。写真の撮影日は2009年8月3日です。内容については一切修正を施しておりませんので、御注意ください。

 「しらやま商店街」を離れ、南へ向かいます。狭い幅の道路で、飲食店が並んでいます。

 完全な飲み屋街という印象を受けるこの通りは、時間のためなのか、人通りがほとんどありません。夜になると多くなるのでしょうか。大分市の歓楽街と言えば都町で、その裏通りを歩いているような気分になります。東京でも、駅の裏道でこのような通りがあります。私は、このような通りをあまり歩きませんし、外で飲むこともあまりありません(それほど好きではないからです)。

 それにしても、「しらやま商店街」が衰退したからなのか、それとも単に夏の暑い昼間であるからなのか、人が歩いていません。いくら飲み屋ばかりが並んでいる通りでも、もう少し人通りがあるような気がします。しかし、それはもはや追憶の世界なのでしょうか。

 既に閉店しているヒートアイランドのビルが見えます。私はこのビルの北側を歩いていたのでした。この道路から見ると、かつてダイエー佐賀店があったという事実が容易に理解できます。いかにも大型スーパーマーケットらしい建物であるからです。ビルの手前に空き地が見えるのも気になります。このビルの中で営業しているサイバック佐賀店の看板が目立ちます。

 佐賀市の中心街は、私が予想していた以上に高層建築物が少ないという印象を受けますが、それは空き地のせいでしょうか。

 不思議に思われるかもしれませんが、今回、佐賀市内を歩いていて一番強い印象を受けた場所です。手前に更地があります。その後に木造の家屋があり、古いコンクリートのビルがあり、奥に高層マンションがあります。建築物の変化を一度に見たような気分になったのです。このような光景を、他の市町村で目にした記憶がないのです。ありそうだけど意外に見かけない、そんなところでしょうか。

 歩き続けると、堀がありました。澄んでいない水ですが、魚が生息しているのでしょうか。石の配置が庭園を意識したようなものとなっています。苔が蒸した石には風情があるものです。

 別の角度から堀の様子を撮影しました。夏らしい濃い緑と、白い道、そして影が微妙なコントラストをなしています。

 歩いている間に、どうして大分時代に佐賀市の中心街を歩かなかったのか、と思いました。大分市、福岡市、長崎市、熊本市、宮崎市および鹿児島市の中心街は、大分時代に歩いているからです(北九州市の小倉と黒崎も歩いています)。私は、どの市町村であれ、そしてとくに県庁所在都市などを訪れたらまず中心街を歩きますが、佐賀市だけは例外だったのです。もし大分時代に佐賀市の中心街を歩いていたら、また違った印象を受けたかもしれません。

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おしらせです(2013年4月11日)

2013年04月11日 22時43分13秒 | 受験・学校

 管理人の権限を利用して、お知らせです。

 4月9日付で、「新・判例解説Watch」(http://www.tkclex.ne.jp/commentary/law_commentary.html)に、私が担当した「相続開始後に売買契約を解除した場合の相続税の課税財産が問われた事例(広島地方裁判所平成23年9月28日判決<LEX/DB25480115>)」(租税法No. 75)が掲載されました。

 御一読をいただければ幸いです。

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再び、大牟田駅から新栄町まで歩く(2010年9月5日)

2013年04月11日 15時04分08秒 | 旅行記

 (2010年12月4日、2010年12月10日、2010年12月16日および2010年12月22日掲載。2010年12月26日、統合、一部変更の上で再掲載。2013年4月11日、「ひろば」に移行。)

 かつて、日本は、少なくともエネルギーの一部について自給国でした。近代産業革命の原動力となった石炭は、日本においても工業生産の発展の原動力となりました。しかし、第二次世界大戦後、エネルギー政策の転換により、日本は石炭の採掘をやめていきます。石油に比べて熱効率などの点で悪いから、ということなのでしょう。自動車などの生産の発展は、石油に切り替えたからこその話であり、石炭中心ではそもそも起りえなかったでしょう。その意味では、石炭から石油への転換は必然的でした。

 しかし、石炭からの離脱により、いくつもの市町村が衰退していきました。とくに北海道と九州北部には多くの炭鉱がありましたから、炭鉱で栄えた市町村は急激に衰退していきます。北海道では、夕張市周辺、釧路市など、1980年代、1990年代、さらには21世紀に入っても石炭の採掘が行われた地域も少なくありません。これに対し、九州北部での炭鉱の閉山は早い時期に集中しています。その中で、福岡県大牟田市、同県みやま市、熊本県荒尾市にまたがる三井三池炭鉱では1990年代まで採掘が行われ、1997年3月に閉山しました。その後、急激に街は衰退していきます。

 「別室9」では、その大牟田市にある大牟田駅から新栄町駅までを2007年9月8日に歩き、目にした様子を「大牟田駅から新栄町まで歩く」と題して紹介いたしました。元は第234回(その1、2007年10月21日掲載)、第235回(その2、2007年10月28日掲載)、そして第236回(その3、2007年11月4日掲載)です。

 それから3年後、2010年9月5日、私は再び大牟田市を訪れました。今回は「再び、大牟田駅から新栄町まで歩く」と題し、第392回(その1、2010年12月4日掲載)、第393回(その2、2010年12月10日掲載)、第394回(その3、2010年12月16日掲載)および第395回(その4、2010年12月22日掲載)として、写真とともに状況を紹介しました。別室9の続編という内容でもあるため、今回、まとめて若干の修正を加え、別室21として掲載することといたしました。

 

 私が集中講義を最初に担当したのは、2003年8月、熊本県立大学総合管理学部の「財政法」です。その翌年、つまり2004年に大分大学教育福祉科学部から大東文化大学法学部に移り、西南学院大学での集中講義を担当しました。それから、毎年の夏休み、9月上旬に福岡市で集中講義を行うのが私の恒例行事のようなものとなっております。2007年と2009年の8月には福岡大学での集中講義も行いました。2010年も、8月31日から9月8日まで、西南学院大学で集中講義を担当いたしました(但し9月4日と5日は中休みです)。大分市に7年間住んでいた者としては、毎年、福岡市に滞在する機会をいただけることに感謝しております。

 さて、その集中講義の期間中に、私は九州の各地を周るようにしています。宿泊を伴うことがあるため、おおよその方角を決めておき、時刻表などを調べます。昨年(2009年)は長崎県の佐世保市と諫早市、佐賀県の佐賀市(ここだけは8月)、有田町、伊万里市、唐津市、そして大分県の大分市、九重町、竹田市などを周りました。大分市を訪れたのは2004年12月下旬以来、およそ4年9か月ぶりのことでした。

 今年は、福岡県内のみとすることを決めていました。もっとも、関門トンネルを通って山口県の下関市にも行きましたが、これは予定していなかったことです。私が気になっていたのは北九州市と大牟田市で、日を変えてどちらにも行くようにしました。

 「別室9」で「大牟田駅から新栄町まで歩く」として大牟田市の中心街を取り上げています。それから3年後、大牟田市の中心街の様子を再び見ておきたくなり、9月5日、西鉄天神大牟田線の特急に乗りました。

 西鉄福岡(天神)駅から約1時間、終点の大牟田駅に到着しました。市の中心街は隣の新栄町駅のほうが近く、特急も新栄町駅に停車しますが、私は大牟田駅まで乗り、そこから新栄町駅まで歩きます。そのほうが周りやすいからです。大牟田駅の東口からは、新栄町駅の東側にある「ゆめタウン大牟田」へ行くバスが出ています。私はゆめタウン大牟田にも行ってみるつもりでした。

 大牟田駅から鉄道線に沿って歩きます。ほどなく、アーケード街が見えてきます。3年前にも歩いたことがある銀座通商店街で、そこが中心街の南端と言うべき場所です。早速歩いてみますが、何軒かの店は開いているものの、ほとんどと言ってよいほど人通りがありません。日曜日の朝だからでしょうか。しかし、既に11時を過ぎています。

 「別室9」で大牟田松屋の建物を紹介しました。2007年9月の時点では建物が残っており、処遇も決まっていなかったのですが、同年の10月23日、西日本新聞で「大牟田の松屋跡地売却 柳川の建設会社に 利用計画は未定」と報じられており、譲渡がなされているということになります。そして3年後です。上の写真のように、アーケードはあるものの、松屋の建物は解体されており、駐車場に変わっていました。アーケードにMATSUYAと書かれた表示板がぶら下がっているのが、かえって侘しさを強く感じさせます。

 アーケード商店街にある交差点を右に曲がります。アーケード商店街は「サンルート」という名称が付けられていますが、松屋の跡は柵で囲まれており、停まっている車も少ないだけに、ここが商店街であることを忘れさせます。ここにどのような建物ができるのでしょうか。分譲マンションでしょうか。それとも何らかの商業施設でしょうか。

 もう一度交差点に戻ります。3年前もそうでしたが、アーケード商店街の舗装が強い違和感を覚えさせます。3年前と異なるのは、松屋の建物がないということです。そのため、違和感はいっそう強くなります。

 サンルートを北に歩きます。別室9の6枚目の写真も御覧下さい。ほぼ同じ地点から撮影していることがおわかりであると思います(角度などは異なりますが)。右側手前の建物には「マチ好きテナント大募集!」と書かれていますが、3年前には店の名前が書かれていました。シャッターに書かれていた店の名前も消されています。

 そして、3年前にはアーケードに店の名前を記した案内板がかけられていましたが、いつの間にか外されていました。このアーケード商店街の将来を暗示しているようにも思えますが、今後、アーケード自体が撤去される可能性があるのかもしれません。

 サンルート、銀座通商店街は、ここで途切れます。正確には途切れていないのかもしれませんが、アーケードはここで終わります。私が、またここに来ることがあるかどうか、今の時点ではわかりません。しかし、再び訪れてみたいと思っています。さらに新栄町駅を目指して歩き続けます。

 大牟田駅と新栄町駅との間に川が流れています。川の南のほうにあるのがサンルートで、橋を渡りますと、上の写真のようにema-ruという名の店舗が見えます。しかし、シャッターが閉じられており、店の前にはロープが張られています。壁に落書きもされています。建物も傷んでいるようです。

 閉店して或る程度の年月が経ったのでしょうか。3年前にも通っているはずですが、記憶にありません。自宅のパソコンを使い、インターネットで検索してみましたが、それらしい店の情報が見つかりません。

 手前の公衆電話ボックスの上に、竜の頭のようなオブジェが飾られていますが、いったい何なのでしょうか。

 3年前にも見かけました。ゴリラ(?)がビルをよじ登っている、というようなものです。前にも六本木のハード・ロック・カフェみたいだと記しましたが、今はどうでしょうか。今年、およそ10年ぶりに六本木へ行きましたが(しかも2回、妻と行きました)、ハード・ロック・カフェの近くを歩いていないのです。

 ほどなく、3年前にも通った三井三池炭鉱専用線の跡に出ます。ここに4種類の絵が描かれているのを「別室9」で紹介いたしましたが、今回は絵に変化がありました。まずは上の写真です。3年前には仏様のような絵が全面的に描かれていたのですが、今回、下のほうは描き換えられています。何だかよくわからない絵なのですが、どなたか、意味がわかる方がおられれば、お教えください。

 なお、今回は他の3つの絵を撮影していませんが、全く変わっていなかったのは水着の女性の絵だけでした。

 新栄町に入りました。歩道の上にあるアーケードにGALLERYと書かれていますが、これはアーケード商店街の名前のようです。建物はパチンコ屋の跡で、板が打ち付けられている部分もあります。3年前も閉店していましたので、全く手つかずのままでしょうか。こう書いて、インターネットで検索をかけてみますと、日刊大牟田という新聞があるそうで、そのサイトではわからなかったのですが、別のサイトでは、どうやら大牟田市が購入したようであると書かれています。これが事実であるとするならば、いったい何のために購入したのでしょうか。

 先ほどのパチンコ屋の建物です。1階がパチンコ屋で、2階がレストラン、カラオケ、喫茶の店、3階から6階までが駐車場、7階が会社(本社?)のようです。なお、この会社は現在もカラオケ屋などを営業しているようです。公式サイトがないのかどうか、検索しても出てきませんので、仕方なく、タウン情報のようなサイトを見ました。

 おそらくはスーパーマーケットか別の大型店舗があったと思われる場所です。3年前にも通っています。歩道にはアーケードがありますから、やはり異様です。駐車場となっていて、意外に多くの車が停まっています。しかし、商店街にはほとんど人通りがありません。3年前よりいっそう空洞化が進行しているような印象を受けます。

  「別室9」でも記しましたが、九州新幹線の新大牟田駅は、大牟田駅から5、6キロメートルほど離れた、大牟田市大字岩本が予定地となっています。新大牟田駅には九州新幹線しか通りません。近い駅というとJR鹿児島本線の吉野駅、および西鉄天神大牟田線の倉永駅ですが、どちらも普通列車しか停まらない駅です。しかも2キロメートルほど離れています。新大牟田駅が開業すると、場合によっては市街地の移転に近い状態が発生するかもしれません。その場合、新栄町は完全に命脈を絶たれる可能性もあります。

 井筒屋大牟田店があった場所は、3年前と同様に空き地になっています。ここにマンションができるという話があったのですが、工事は全く進んでいません。新栄町駅はすぐそばにありますから、西鉄天神大牟田線の特急に乗れば西鉄福岡(天神)まで1時間ほどです。ただ、同線は大手私鉄の幹線ですが、便利なのは西鉄福岡(天神)~西鉄二日市、もう少し先に行って筑紫までです。大善寺~大牟田は、日中、特急が30分間隔、西鉄福岡(天神)には行かない普通電車が30分間隔です。急行は朝と夜に何本かが走る程度です。九州の交通事情を考えれば、悪くはない条件であるとは言えますが、やはり福岡市からは遠いでしょうか。

 ちなみに、井筒屋大牟田店は現在もあります。もっとも、独立した百貨店としてではなく、新栄町駅の東方にある「ゆめタウン大牟田」のテナントとしてです。

 井筒屋大牟田店の跡の真向かいにある建物ですが、3年前にはなかったはずです。「別室9」で取り上げた、板が打ち付けられている、あるいは嵌め込まれている宝くじ売り場があった建物が、この場所にあったのです。現在はマンションになっていますが、1階はテナントとして貸すことが予定されているようです。「新築分譲中」という幟がありますので、まだ完成して間もないのかもしれません。

 新栄町には完全なアーケード商店街があまりなく、歩道がアーケードとなっている所が多いのですが、ここは完全なアーケード商店街となっています。しかし、シャッター通りとなっていて、開いている店は少なく、お客もほとんどいません。あるいは日曜日なので店が休みなのかもしれませんが、それにしても寂しい通りです。

 道はタイル貼りのような舗装となっています。大牟田松屋跡の前もそうですが、道路は美しくデザインされた舗装がなされているので、建物と道路とのギャップがいやがうえにも目立ちます。

 この商店街は「エレガンス一番街」です。大牟田といえば三池炭鉱で、閉山前は人通りも多かったことでしょう。田川市や直方市もそうなのですが、炭鉱で栄えた市町村は、閉山の後がかなり厳しいことがわかります。

 日本には炭鉱で栄えた地域が少なくありませんが、代表は何と言っても北海道と福岡県でしょう。北海道のほうはよくわかりませんが、財政再建団体となった夕張市を初めとして、人口が激減し、財政破綻などに至った市町村は少なくありません。福岡県、とくに筑豊地域も同様です。大牟田市は筑豊地域ではなく、筑後地域にありますが、閉山で人口が大きく減少したことは想像に難くありません。また、筑豊地域の炭鉱は北海道よりも早い時期に次々と閉山していますが、三池炭鉱は1997年に閉山しています。

 一番街を抜け、北のほうへ歩きます。3年前と変わらない土地が目の前にありました。おそらくは大規模店用の建物があったと思われるこの土地の活用方法については模索中なのでしょうか。奥のほうにはビルが並んでいるだけに、目立ちます。

 右側が、先ほどの空き地です。完全にフェンスで囲まれています。そして、歩道の上にアーケードがあります。やはり、何度見ても異様な光景です。これではアーケードの意味がないでしょう。左側には建物があり、いくつかの店が営業を続けているようです。

 新栄町駅の前まで歩きました。西鉄天神大牟田線の特急に乗って大牟田駅で降り、新栄町駅まで歩くコースは、3年前とほぼ同じです。しかし、今年は、ここで終わるのではなく、新栄町駅の東側にある「ゆめタウン大牟田」にも行くつもりです。

 再び登場しました。井筒屋大牟田店の跡地です。ここにマンションが建てられる予定で、幟にもあるように「大牟田市中心市街地活性化プロジェクト」とされています。3年前に来た時には水溜りがありましたが、今回は整地されているようです。しかし、まだ建てられていません。どういう理由によるのかは不明ですが、何らかの問題があるのでしょうか。

 新栄町駅の南側に踏切がありますので、西鉄天神大牟田線とJR鹿児島本線を渡ります。すぐに国道208号線に出ますので、その国道を北のほうへ歩きます。ほどなく、上の踏切に出ます。ここは旭町1号踏切です。ここを三井化学の専用鉄道、かつての三池鉄道の路線が通っています。炭鉱の閉山までにほとんどが廃止されましたが、ここは唯一、現在も営業中です。

 

踏切からJR鹿児島本線のほうを撮影してみました。線路を見れば、現役の路線であることがわかります。ここは貨物列車しか通りません。

 反対側を撮影してみました。奥のほうに進むと三井化学の工場があります。

 よく考えてみると、私は大牟田市を自動車で走ったことがありません。大分市に住んでいた7年間に一度しか訪れたことがなく、その時は西鉄天神大牟田線に乗って大牟田駅で降り、東口を歩いてJR鹿児島本線に乗って博多駅に出たのです。ちなみに、九州自動車道は大牟田市を通ってはいますが、インターチェンジがありません。また、国道3号線は大牟田市を通っていません。

 さらに国道208号線を歩き続けると、東側の歩道に御覧のような商店街(?)が見えてきます。歩道にはアーケード、というより屋根が架けられており、何軒かの商店が並んでいます。屋根の傷みは激しく、また、閉まっている店も多かったのでした。ただ、それは日曜日であるからなのかどうかがわかりません。いかにも昔からあるような店ばかりなので、歩いていて懐かしさを覚えてきました。

 この商店街を抜けると、すぐにゆめタウン大牟田が見えてきます。

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佐賀駅から中心街を歩く(その3)

2013年04月11日 00時04分27秒 | 旅行記

 以下は、「待合室」の第346回として2010年1月22日から29日まで掲載した記事です。写真の撮影日は2009年8月3日です。誤字脱字の類を除いて一切修正を施しておりませんので、御注意ください。

 「しらやま商店街」を歩いています(しらやまは、漢字で記すと「白山」です)。九州島内の県庁所在都市、すなわち福岡市、佐賀市、長崎市、熊本市、大分市、宮崎市および鹿児島市の全てを訪れ、中心街を歩いていますが、福岡市は別格として脇に置くとしても、ここまで空洞化が進んでいる所は佐賀市の他にありません。 私は、大分大学在職中に何度か佐賀市を訪れていますが、中心街を歩いたことはありません。佐賀駅の北方、長崎自動車道の佐賀大和インターチェンジの近くに郊外型大規模店舗がいくつもあり、その辺りを車で走ったことがあるだけです。

 この写真の左側だけを見ると、シャッターが閉じられている店もありますが営業中の店舗もあり、午前中の商店街という感じです(実は正午を過ぎています)。しかし、右側にある、明らかに大規模店舗の跡が商店街の今の様子を物語っています。一度訪れただけで軽率に印象を語るものではありませんが、京浜地区の商店街を歩き慣れているだけに、また、九州各県の県庁所在都市を歩いているだけに、空洞化の進行状況がわかります。

 この大型店舗の跡は、いやがうえにも目立ちます。閉店してからそれほど時間が経過していないようで、外壁はそれほど傷んでいないようにも見えます。問題は、この後に建物がどのようになるかでしょう。別の企業による大型店舗の開店も考えられなくはないのですが、可能性は低いものと思われます。

 ただ、よく見るとこの建物で営業している店舗があります。上の写真の右側に、その店舗の立て看板があります。この建物の4階と5階にインターネットカフェがあります。 全国的に展開しているインターネットカフェの支店であるとのことです。

 ネットカフェ難民という深刻な現象が語られる昨今ですが、私は2004年にインターネットカフェを利用したことがあります。首都圏では溝口と立川、九州では福岡の今泉(西鉄福岡駅と薬院駅の間)と大分駅前です。大分大学を離れて大東文化大学へ移った年で、まだ自宅にインターネットの環境が出来ていなかったためです。とくに、西南学院大学における最初の集中講義の際には、ほぼ毎日、夕食をとってからインターネットカフェを利用していました。

 ここから建物の中を見ることができますが、閉店して間もないようです。そして、入口には閉店を知らせる貼り紙がありました。その全文を書き写しておきましょう(写真もあるのですがピンボケになっていますので)。

  「お礼とご挨拶

 H.I.は平成21年6月29日をもちまして閉店させていただきました。

 皆様に支えられた28年間、多数のお客様にご来店していただき、感謝と感動の気持ちでいっぱいです。お客様より頂きました『暖かいお言葉・すばらしい感謝』を忘れる事はございません。

 また、6月27日・28日・29日の『感謝の3日間』、多数のお客様に足を運んでいただきました事を厚く御礼申し上げます。

 なお、これまでH.I.にてご購入して頂いた商品のメーカー様お問い合わせ先につきましては、下記QRコードよりご確認する事ができます。

 また、サイバック佐賀店につきましては、今後も今まで通り営業いたします。

 最後となりますが、長きに渡りのご愛顧、誠に有難う御座いました。

 (「メーカー様お問い合わせ先QRコードは省略」)

 平成21年6月吉日

 株式会社  ヒートアイランド」

 佐賀新聞が2009年6月26日に報じたところによりますと(http://www.saga-s.co.jp/news/saga.0.1318883.article.html)、このヒートアイランドという会社は衣料品店を経営しており、1981年に創業しました。1987年、佐賀市の唐人に本社ビルをオープンさせ、1999年4月に上の写真の建物に移転しました。実は、この建物は元々ダイエー佐賀店が入っていたビルだったのです。大分市もそうでしたが、九州からはダイエーの多くの店舗が撤退しています。ダイエー佐賀店の閉店は大分店より早かったようです。その後にヒートアイランド社が入居したのですが、ほぼ10年で閉店に至ったことになります。佐賀新聞の記事には「ピーク時の年商は10億円を超えたが、大型店進出の影響で近年の売上は3分の1程度まで落ち込んでいた」と書かれています。やはり、北部の郊外型大規模店舗との競争に負けたということでしょう。会社は清算するとのことでした。

 上の挨拶文に登場するサイバック佐賀店はインターネットカフェで、これは現在も営業しています。前の写真の立て看板はサイバック佐賀白山店のものです。

 同じビルの東側 です。おそらく何らかの店舗だったのでしょう。しかし、営業を終えていることは明らかです。この、かつてダイエー佐賀店であった建物は、4階と5階に営業店舗があるのに1階から3階までは完全に空き家という奇妙な状態にあります。

 しらやま商店街を抜け、少し南に進むと、今度はエスプラッツの建物があります。これも大分時代に聞いたことがある名前です。研究室で聞いた、NHKラジオ第一放送の「列島リレーニュース」でした。ここは、かつて第三セクターの「まちづくり佐賀」が運営していたのですが、1998年のオープンからわずか3年でこの第三セクターは倒産しました。しかも、その後もしばらく営業していたとはいえ、しばらく全ての店舗が撤退して空き家の状態が続くという状態になりました。結局、佐賀市などが購入し、公共施設などがオープンするということになりましたが、やはり自動車社会の進展とそれに伴う郊外型大規模店舗の進出が致命的であったようです。悪いことに、エスプラッツには大型の無料駐車場がなかったようです。これでは失敗が最初から運命付けられていたようなものでした。ちなみに、この建物の上部は住宅となっています。

 少なくとも九州で中心街の活性化を図るための第一歩は、駐車場の見直しです。有料では利用客が減ります。買い物をするために利用するとしても、実際に何かを買わなければ高い駐車料金を払わなければなりません。また、買い物の金額によって無料となる時間が決まっていますから、たとえば2000円分の買い物をした場合に1時間分が無料になるとしても、1時間を超えると駐車料金を払わなければなりません。さらに、利用客にとって駐車場の券はわずらわしいものでして、紛失したらおしまいですし、そうでなくとも買い物の度にレジで券を出して処理してもらわなければなりません。郊外型大規模店舗の駐車場であれば、そもそも駐車料金をとられませんから、時間と買い物の金額を気にする必要もありませんし、券の紛失などを心配する必要もありません。もし、中心街が郊外型大規模店舗と対等に競争をし、勝利したいのであれば、駐車場を無料化することから始めなければなりません。しかし、そのためには広大な面積の敷地、または大きな駐車場専用ビルを建設する必要があります。

 以上のことは、首都圏でも当てはまります。私は、時折、休日に川崎市高津区、宮前区や横浜市青葉区、都筑区、緑区のホームセンター、大型電器店などへ行きます。駐車料金は無料です。品揃えも悪くありませんし、中心街より安価であることも多いのです。電器店で言えば、専門的知識、さらにポイントカードの使い易さまで、中心街の店舗より郊外型大規模店舗のほうが上であることも少なくありません。

 それから、コンビニエンスストアについても駐車場が必要となります。現在、私が住んでいる場所の近くに、絶えずお客が集まるコンビニエンスストアがあります。ここには比較的大きな駐車場があります。駅からそれほど離れてはいないのですが、駐車場のおかげで集客力があると考えるのが自然です。同じような例をいくつも見ています。

 お断りしておきますが、以前にも記しましたように、私は自動車社会を良いものと思っていません。7年間、大分市に住んでおり、自家用車通勤をしておりましたので、体調が悪い時などに感じる不便さを痛いほどに知っています。私が住んでいた所は郊外型大規模店舗が近かったので、買い物などは便利なほうでした。しかし、自家用車がなければ通勤も通学もできない、病院にも行けない、などという地区が多いのです。何しろ、大分市では飲み屋でも駐車場完備が当たり前というくらいです。どう考えても公共交通機関を使えそうもない所にショットバーや居酒屋があったりします。これでは飲酒運転を減らせる訳がありません。

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佐賀駅から中心街を歩く(その2)

2013年04月10日 00時04分18秒 | 旅行記

 以下は、「待合室」の第345回として2010年1月12日から22日まで掲載した記事です。写真の撮影日は2009年8月3日です。ほんの一部を除いて内容には一切修正を施しておりませんので、御注意ください。

 さて、私は佐賀駅南口から南へ歩いています。佐賀城址へ向かっていることになります。しばらく歩くとアーケード街が見えてきました。これまで、私が訪れた九州のアーケード街は、福岡市中央区天神の新天町など一部を除いて衰退あるいは疲弊の様子をまざまざと見せ付けていますが、佐賀市の場合はどうでしょうか。

  「しらやま商店街」と書かれたアーケードの入口です。右側に有料駐車場があるのですが、車はほとんどありません。人も歩いていないので、嫌な予感もします。いかに真昼とはいえ、買い物客がいないのでしょうか。とにかく、アーケード商店街の中に入ってみなければわかりません。

 先ほどの入口から商店街の中に入ってみました。予感通りでした。ほとんどお客がいません。アーケードに「さが銀天夜市」という垂れ幕がかけられていて、そのすぐ後ろには七夕の飾りもあります。それにしては寂しい感じです。県庁所在都市の中心街のアーケードでもこれほど寂しい所は、九州では佐賀市だけでしょう。大分市に住んでいた時にはセントポルタ中央町によく行きましたが、人通りという点で全く違います。同じ大分市の中央町にある竹町商店街も、ここまで寂しくはありません。「しらやま商店街」を私が歩いて思い出したのは、中津市、臼杵市、佐伯市、田川市、直方市、大牟田市、旧甘木市 (現在は朝倉市)の商店街です。臼杵市と佐伯市のアーケード商店街を除き、この「待合室」で取り上げています。

 この寂れた商店街に「ジョブカフェSAGA」、「ヤングハローワークSAGA」があります。はっきり言って設置場所を間違えています。いかにもお役所仕事らしいと記すのは、言葉がきつすぎるでしょうか。首都圏や京阪神と同じ感覚でいては他の地方を理解できません。どの地方であれ、若者が遊びに来るような所に作らなければ意味がないと思うのです。中に入っていませんのでよくわかりませんが、どのくらいの利用率なのでしょうか。土曜日と休日に開いていればまだ「使える」場所となりますが、そうでなければ、設けるだけ無駄でしょう。

 アーケード商店街を少しばかり外れると、このような小路がありました。首都圏では武蔵小山に少しばかり似ています。飲み屋などがあるからです。しかし、武蔵小山よりも道幅が狭いように感じます。元住吉の商店街に交差する脇道に入ると、やはり幅の狭い道がありますが、ほとんどは住宅地となっています。

 アーケードの影が手前にありますが、一角が完全な空き地になっています。あまり広くない土地ですが、かつてはここに建物があり、店舗が構えられていたはずです。しかし、今は何もなく、雑草が生えています。これではアーケードの意味がなくなりますが、九州ではこのような商店街が少なくありません。しばらく、ここはこの状態のままなのでしょうか。

 よく指摘されることですが、日本では一極集中傾向が続いています。全国的にみれば東京への一極集中ですが、各都道府県ごとにみるならば県庁所在都市への一極集中です。そして、各地方別にみるとその地方の代表都市への一極集中という現象があります。九州では福岡市への一極集中です。

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佐賀駅から中心街を歩く(その1)

2013年04月09日 07時12分31秒 | 旅行記

 以下は、「待合室」の第343回として2009年12月25日から2010年1月1日まで掲載した記事です。写真の撮影日は2009年8月3日です。誤字脱字の類を除いて一切修正を施しておりませんので(従って、九州新幹線開業などの事実についても反映しておりませんので)、御注意ください。

 2009年には、8月と9月の2回、集中講義のために福岡市に行きました。8月は福岡大学、9月は西南学院大学です。九州を代表する二つの私立大学で講義を担当できることは光栄です。2010年も西南学院大学で担当する予定となっております。

 その集中講義の期間の前後、または中休みには、福岡県を軸として、可能な限り九州島内の各所を周るようにしています。とくに気にかかっているのが中心街の空洞化です。九州では、私が大分大学に着任した頃から相当の加速度を伴う勢いで進んでいます。 市町村合併の行方も気になります。

 今回は、8月の集中講義の前に行った佐賀市の佐賀駅前からスタートします。

 福岡市内のホテルを出て西鉄天神大牟田線と太宰府線を乗りついで太宰府天満宮へ行き、参拝を済ませました。太宰府駅に戻り、急に佐賀駅周辺に行きたくなりました。私が大分大学に勤務していた時には、時間を見つけて九州島内の各県に行き、県庁所在都市を歩き回ったのですが、佐賀市、いや佐賀県だけは宿泊したことがありません。佐賀市には、福岡市の天神などへ行った時の帰りに、郊外のほうに遊びに行っただけでして、中心街を歩いたことがなかったのです。

 佐賀県は、たとえば九州自動車道で福岡から熊本へ行く際に必ず通ります。大分から大分自動車道と九州自動車道を経由して福岡市に向かう時も必ず通ります。鹿児島本線で福岡から久留米や熊本へ行く時も必ず通ります。基山町および鳥栖市が佐賀県にあるからです。しかし、佐賀県は通るだけであまりゆっくりと歩いたりする機会がないという所でした。

 そこで、太宰府駅から太宰府線に乗って西鉄二日市駅に出て、天神大牟田線の急行、普通、特急を乗り継ぎ、西鉄柳川駅で降りました。そこから西鉄バスに乗れば佐賀駅に行けます。本数が少ないうえに時間もかかりますが、大川市を通り、遠くからではあっても筑後川にかかる旧国鉄佐賀線の昇降橋を見ることができたのは幸いでした。

 西鉄柳川駅からのバスは佐賀バスセンターに到着します。佐賀駅の東側、高架下にあります。そこから駅の改札口はすぐです。この駅は、昨年にも利用したことがありますが、唐津線の発車時刻の関係で街を歩いていません。

 上の写真は佐賀駅の南口です。佐賀県の代表駅ですが、首都圏の大手私鉄の高架駅に感じが似ています。駅にはデイトスが入居しており、買い物や食事などもできます。なお、ここから唐津線の列車が発車しますが、正式には長崎本線のみの駅です。

 なお、九州には高架駅が少なく、佐賀県では佐賀駅、唐津駅、和多田駅しかありません。

 南口には西友があります。関東地方ではお馴染みのスーパーマーケットで、かつては西武系(セゾン系)でしたが、現在はウォルマート系と言ってよいでしょう(セゾン系ではありません)。九州で西友があるのは、私が知る限り、博多南駅前、諫早駅前、そしてこの佐賀駅前のみです。

 手前にある有明佐賀空港の広告(?)が目に付きました。たしか、東京便と大阪便を合わせて、一日5往復くらいしかないはずです。九州各県には空港がありますが、新北九州空港を除くと佐賀空港が最も遅く開港しています。それまで佐賀県は、九州では唯一の無空港県だった訳です。利用実績があまり芳しくないとも聞いていますが、どうなのでしょうか。

 九州の県庁所在都市は、大分市を除き、中心街から代表駅(JRの)まで離れています。最も極端な例は熊本市ですが、この佐賀市もそうで、中心街までは駅から上の写真の通りを南下して行きます。ただ、佐賀市の場合は代表駅の前にビルなどが建ち並んでおり、オフィスなども多いようです。また、佐賀市は肥前鍋島藩の城下町だったところですが、佐賀駅付近は区画整理が行き届いているようで、道は真直ぐです。

 たしか、佐賀駅前に東急インがありました。右にあるルートインがそうだったと記憶していますが、定かではありません。

 この光景は首都圏のどこかに似ているな、と思いながら歩いたのですが、よくわかりません。走る自動車や歩く人の数は少ないのですが、何となく感じが首都圏に似ているように思えました。そうは言っても、県庁所在都市は、それぞれ独特の表情を持っています。九州7県の県庁所在都市を 、とくに代表駅前を中心にして全て歩くとよくわかります。

 南下を続けると唐人町に到着しました。福岡市中央区にも唐人町という駅がありますが、やはり外国人が多く住んでいる町であったのでしょうか。ここの辺りが商店街のようになっていますが、シャッターを閉めている店舗が少なくありません。また、建築制限をかけられているのか、別の理由によるのか、高層建築物がほとんどありません。そのため、開放感のようなものを覚えます。

 それにしても、暑い夏の平日とは言え、人があまり歩いていません。私が生まれ育った川崎市では、最近でこそ歩道が多少広くなった所もありますが、ここまで広くない所のほうが多いのです。 自転車が走っているのは見えますが、歩いている人はほとんど見かけなかったのでした。これでは歩道というより自転車道です。店にもお客があまり入っていないようです。夕方になると違うのでしょうか。中心街らしい所はまだ先のようですので、歩き続けます。

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福島交通飯坂線に乗ってきました

2013年04月08日 00時18分30秒 | 写真

 2013年3月30日、東北新幹線に乗って福島市へ行ってまいりました。この日にコラッセふくしまで行われた日本自治学会セミナー(共催:福島大学)「福島復興に向けて~被災自治体をどう支援するか~」に参加するためです。

 実は、東北地方に足を踏み入れるのはようやく2回目で、本格的には今回が初めてです。2004年9月に勿来駅を利用していますが、これは目的地の大津港駅(茨城県)に私が利用した特急が停まらなかったためです。その翌日には泉駅を利用しましたが、これも大津港駅に停まらない特急に乗って帰らなければならない事情があったためです。つまり、福島県の南部にほんの少しばかり入っただけでして、これでは行ったことにならないと思っていました。

 そして、せっかく福島市に行くのだから、セミナーに出席したらすぐに帰るというのもつまらないし、時間を調整して、飯坂温泉まで行ってみようと考えました。東北新幹線の時刻を調べ、東京駅を9時24分に発車するやまびこ131号に乗ることに決めました。福島駅には10時46分に到着しますので、これなら余裕ができます。

 福島駅に到着し、福島交通飯坂線のホームへ向かいます。東北新幹線のホームは西口にありますが、福島交通飯坂線のホームは東口で、かなり北のほうに外れた場所にあります。阿武隈急行と同じホームの右側(東側)が飯坂線のホームです。

 360円の切符を買い、待っていたら電車が到着しました。何とも変なデザインの正面ですが、これが、東急東横線や田園都市線などで活躍した日本最初のオールステンレスカー、初代7000系です。福島交通には中間車のデハ7100形のみが譲渡されたため、運転台を設置する改造を受けています。その結果、東急9000系を非貫通構造にしたかのような正面になった、という訳です。

 飯坂線には元東急の初代5000系も走っていましたが、電圧が直流750Vと低く、旧態依然とした車両も多く在籍していました。1500Vに昇圧する際に、全車両を初代7000系に改めました。福島交通でも7000系として走っています。

 初代7000系は、VVVF制御への改造を受けて7700系として現在でも東急池上線・東急多摩川線を走っており(2012年に廃止された十和田観光電鉄線でも走っていました)、青森県の弘南鉄道、埼玉県の秩父鉄道、石川県の北陸鉄道(石川線)、大阪府の水間鉄道にも譲渡されました。秩父鉄道では既に廃車となっていますが、弘南鉄道、北陸鉄道、水間鉄道、そして飯坂線では現在でも活躍しています。

 10時55分発の電車に乗り、懐かしいモーター音、ブレーキ音を聞きながら、車窓を楽しみました。元々、飯坂線は軌道として開業しました。そのためなのか、駅間距離が短く、速度もあまり高くありません。初めて利用した私にとっては意外なことに、沿線は住宅地で、終点の飯坂温泉まで続いています。また、乗客も多く、収支状況はともあれ、輸送密度はそれほど低くないのではないか、と感じられました。

 終点の飯坂温泉駅に到着しました。線路は一本しかなく、乗車ホームと降車ホームとに分けられています。

 飯坂線が福島飯坂電気軌道株式会社によって開業したのは1924(大正13)年のことで、福島から飯坂(現在の花水坂)までの8.9キロメートルでした。同年、会社は飯坂電車株式会社と名を改めています。1927年、現在の終点である飯坂温泉まで延長し、ここに現在の飯坂線が完成します。同年に福島電気鉄道株式会社と合併し、飯坂西線となります。1962(昭和37)年に、会社は福島交通株式会社と改名します。福島交通は飯坂線以外に軌道線を運営していましたが、すべて廃止しており、この飯坂線だけが残ります。

 1976(昭和51)年には東急から3300系が移ってきました。そして、1980(昭和55)年、東急から初代5000系が移ってきました。1991(平成3)年に昇圧したことにより、東急から初代7000系を譲り受けたのです。

 しばらく飯坂温泉駅周辺を歩き、電車に乗って福島駅に戻ってきました。

 飯坂線ではワンマン運転が行われておらず、必ず車掌が乗務します。但し、車掌は基本的に乗車券の販売と回収を行うだけです(途中に無人駅が多く、終日駅員がいるのは桜水駅くらいであるため)。

 片道9.2キロメートルという短い路線ですが、味のある路線、そんな印象を受けました。何と言っても、初代7000系が今でも活躍しているのがうれしいところです。

 〔2013年4月1日~8日、待合室「ひろば」の第519回として掲載。〕


YouTube: 福島交通飯坂線の7000系デハ7103(+デハ7204)


YouTube: 福島交通飯坂線側面展望(飯坂温泉→福島)

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民法第900条第4号について違憲判決が出されるのか?

2013年04月06日 10時14分31秒 | 法律学

 昨日(4月5日)付の朝日新聞朝刊38面14版に「婚外子相続格差 秋にも憲法判断 最高裁、7月に弁論」という記事が掲載されていました。小さいのですが、見落とせません。

 現在、民法第900条第4号に関係する訴訟が最高裁判所に2件係属しています。それらについて、4月4日、大法廷が弁論を7月10日に開くことを決めました。

 事実としてはこれだけなのですが、大きな意味を持っています。判例が変更される可能性は高いのです。既に「今年8月24日に大阪高等裁判所が出した決定は、今後の判例になるのか?」において、裁判所法第10条を引用しつつ記したことですが、最高裁判所大法廷は1995年7月5日に民法第900条第4号を合憲とする決定を出したのですが、これには反対意見も付されており、問題の根深さを示していました。その後も、最高裁判所は合憲という判断を繰り返していたのですが、その度に反対意見が付されていたのです。

 上記朝日新聞記事にも書かれていますが、2010年から翌年にかけて、やはり民法第900条第4号に関して大法廷が審理を行いました。この時は当事者間の和解によって裁判が終了したため、大法廷の判断が示されていませんが、審理を行ったという事実が重要で、その影響は小さくありません。2011年8月24日、大阪高等裁判所は民法第900条第4号を違憲とする決定を出していますし、同年12月21日には名古屋高等裁判所が、規定そのものは合憲としつつも事案への適用を違憲とする判決を出しています〔この判決については、当ブログでも「名古屋高等裁判所の違憲判決」において取り上げています〕。

 裁判とは別に(と記すべきでしょうか?)、民法の改正案が国会に提出される可能性があるようです。時期は来年あたりということらしいのですが、あるいは最高裁判所大法廷の判断を待つということでしょうか。

 いずれにせよ、民法第900条第4号については見直しが不可避であるということです。この問題については、おそらく見解が分かれるでしょう。当然のことで、どの立場から見るかによって意見が異なりうるのです。子の立場から言えば「子は親を選べない(親は子を選べるかもしれないが)」ということでしょう。大分大学教育福祉科学部在職中、何かとこの言葉を口にしていました。

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フランクフルト・アム・マインのゲーテ像

2013年04月05日 00時36分22秒 | 旅行記

 今回は、「待合室」第458回(2012年1月1日掲載の「フランクフルト・アム・マイン(Frankfurt am Main)の風景(4)」の再掲載です。また行ってみたくなったりしたものですから。なお、修正を施しています。

 フランクフルト・アム・マインと言えば、ドイツの大文豪、ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe, 1749-1832)の出生地でもあります。そのため、ドイツ最大の大学ともいえるフランクフルト・アム・マイン大学の正式名称はJohann Wolfgang Goethe-Universität Frankfurt am Mainというのだそうです。滞在時に宿泊したホテルの裏に、大学の施設が点在していました。

 さて、ゲーテの銅像がフランクフルト・アム・マインの市街地、まさに中心部とも言える所に立っています。この銅像の近くにHugendubelという本屋(日本で言えばジュンク堂書店、紀伊国屋書店、ブックファースト、あるいは我が地元の文教堂本店という感じの本屋です)があり、法律書ばかり5冊買いました。その後、この銅像の前に着きました。まさしくGoetheplatzです。

 市内にはゲーテの生家もあり、現在はGoethehaus(Goethe-Museum)となっています。この銅像からは少し離れた所にあります。後ろのほうにある黄色い装飾の施された入り口がHugendubelでした。

 ゲーテの生涯をここで記す必要は無いと思われるのですが、少しばかり記しておきましょう。1749年8月28日、フランクフルト・アム・マインで彼は生まれました。裕福な市民の家庭であったようで、Goethehausを訪れるとその一端がわかります。ライプツィヒ(Leibzig)大学とシュトラースブルク(Straßburg. 現在はフランスのシュトラスブールStrasbourg)大学で法律を学びますが、戯曲のGoetz von Berlichingen、小説のDie Leiden des jüngen Werters(若きヴェルテルの悩み)で一気に名声を上げました。ゲーテは政治家でもあり、ヴァイマール(Weimar)公国において様々な職を歴任し、宰相にもなります。その一方、詩人として、小説家として、戯曲家としての活動も続けます。そればかりか、色彩論など、自然科学者としての一面まで持ち合わせていました。

  しかし、ゲーテと言えば何と言っても文豪としての位置が最も重要でしょう。ドイツ古典主義文学を確立した彼は、Wilhelm Meister(いわゆる教養小説の代表的作品)、Faust、Egmont〔戯曲。ベートーヴェン(Lutwig van Beethoven, 1770-1827)の同名の曲としても有名〕、多くの詩で有名となりました。また、何かの本で読んだのですが、近代ドイツ語は、基礎をマルティン・ルター(Martin Luther, 1483-1546)が作り、ゲーテが完成させた、とも言われています。

 大学に入学したばかりの頃、神田神保町の三省堂書店でGoethe für Kinder, Lutz Görner spricht : Goethes Letzter Geburtstagというカセットブックを買いました(後にCDとなって再発売されましたが、現在はどうやら入手困難であるようです)。名前の通り、ゲーテの最後の誕生日に、ゲーテ自身が孫たちに自分の人生を語り、時には自作の詩を歌ってみせるという設定です。ゲーテは1832年3月22日にヴァイマールで亡くなっていますから、カセットブックの設定は、彼が満82歳を迎えた1831年8月28日ということでしょうか。ちなみに、19世紀の後半にゲーテの家系は途絶えています。

 私がゲーテの生涯で最も関心を抱いたのは、ベートーヴェンとの関係です。両者は一度だけ対面しているのですが、どうやらゲーテはベートーヴェンを嫌っていた部分があったようです。但し、それではゲーテが完全に嫌っていたかというと、そうでもないようで、何度か再会の機会をうかがっていたという話を読んだことがあります。そして、ベートーヴェンも、ゲーテの戯曲Egmontへの音楽を作っていますし、他にも何曲かがあるようです。

 今回はヴァイマールもボン(Bonn)も訪れていませんが、いつか必ず、街を歩こうと思っています。

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都営三田線西台駅北側の人工地盤

2013年04月04日 23時03分51秒 | まち歩き

 〔私のサイトにて続けている「待合室」では、時折、本務校である大東文化大学の最寄り駅の一つ、都営三田線の西台駅を取り上げています。今回は、第517回として3月15日から24日まで掲載したものを、一部修正の上でここに載せることとしました。〕

 板橋区高島平には四つの駅がありますが、九丁目一番一号にあるこの西台駅には、唯一、「高島平」という文字が使われていません。これは、三田線が開業した当時の地名が志村西台町となっていたからで、高島平九丁目、および西台駅のすぐ南側の一丁目は、1960年代に高島平に編入されたそうです。現在、西台という地名は首都高速5号線の南側に広がっています。

 西台駅の北側に、都営三田線の車庫である志村車両検修場があります。東京都交通局の6300形が所属していますが、東急3000系や5080系(5000系シリーズの目黒線版)も留置されており、駅の南行ホーム(巣鴨、目黒方面ホーム)からも見ることができます。この日は5080系の5185Fが入線していました。

 なお、志村車両検修場に入る線路は、西台駅からではなく、隣の高島平駅から伸びています。但し、乗務員の交代は西台駅で行われます。

 志村車両検修場の真上には人工地盤が造られています。高島平と言えば団地で有名でしたが、車庫だけでは土地を有効に活用しているとは言えないからでしょうか、団地の建設によって人口を増やすためでしょうか、御覧のような形に仕上げたのでした。

 車庫の上にある人工地盤の上には、都営西台アパート(東京都住宅供給公社西台住宅)が建てられています。しかも一棟ではなく、四棟です。車庫の北側に東京都交通局志村寮があり、そこからの連番となっているので、東から5号棟、6号棟、7号棟および8号棟が建てられているのです。また、区立の高島平さつき保育園が6号棟に設けられています。

 西台駅のすぐ南側に伸びる道路から脇に入り、高架線の下を抜けて都営西台アパートのある人工地盤まで歩けるように、御覧のように通路が設けられています。左側が西台駅のホームで、右側が人工地盤です。

 都営三田線の巣鴨から高島平までが開業したのは1968(昭和43)年で、西台駅の開業も同時です。そして、都営西台アパートは1970(昭和45)年に入居開始となっていますので、既に40年を超えています。

 ちなみに、高島平駅は、開業当初は志村と称していました。三田線には志村坂上駅と志村三丁目駅もありますが、両駅とも高島平地区にはありません。蓮根駅と西台駅をはさんでいますので、少々紛らわしいように感じられたかもしれません。

反対側にも都営西台アパートへの通路があります。右に少しばかり見えるのは、西台駅のホームの真下にある職員用通路です。

 西台駅の高架下から都営西台アパートに向かう通路は幾つか存在しており、上の写真は、これまでとは違う場所にあります。東京都交通局の職員が業務用に使用する通路(従って乗客は利用できません)が手前に見えます。西台駅の高架下には飲食店や書店などが並んでおり、私も時折利用しています。

 さて、西台駅の西口の近くに、全く使用されていない通路があります。「非常口」となっており、「高島第四小学校」の文字も見えます。やはり都営西台アパートの人工地盤の上にあった小学校です。

 おそらく、今後も開けられる可能性は少ないでしょう。高島第四小学校は2002(平成14)年、高島第六小学校(高島平一丁目)と統合される形で廃校となっています。板橋区による正式の扱いは、2002年4月1日、高島第四小学校と高島第六小学校の双方を閉校とし、同時に新校としての高島第六小学校を開校する、というものです。同区では、やはり2002年4月1日に板橋第三小学校および稲荷台小学校を閉校として同日に加賀小学校を開校しています。その後、2005(平成17)年4月1日には若葉小学校を廃止して若木小学校に吸収統合しており、2007(平成19)年4月1日には高島第七小学校(高島平三丁目)を廃止して高島第二小学校(高島平二丁目)に吸収統合しています。

 高島第四小学校の閉校から10年余りが経過していますが、メインテナンスの手は入れられているのでしょうか。

 たまたま、板橋区教育委員会が2003(平成15)年11月26日付でまとめた「板橋第四中学校適正配置実施計画」という文書を見る機会がありました。そこには、次のように書かれています。

 「板橋区の人口構成は急速に少子高齢化が進んでいて、子どもの数は今後も減少していくものと見込まれています。また、区立学校の児童・生徒数をピーク時と比較すると、小学校は昭和56年の51.8%、中学校は昭和60年の47.6%に半減していて、全体として学校規模の小規模化が進んでいます。さらに、区立学校間の学校規模のひらきが大きくなり、児童・生徒数の増減についても学校や地域ごとにバランスを欠く状況にあります。」

 高島平では、昭和30年代から団地の建設が進められ、昭和40年代に多くの入居者を抱えるようになりました。しかし、1992年を境に人口が減少に転じます。とくに団地地区では高齢化が顕著に進んでおり、これが小学校の統廃合にもつながっています。大東文化大学で高島平プロジェクトを推進しているのも、少子高齢化による人口減少という問題があるからです。

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