失われた車窓の記憶  その1

2011年09月14日 | 
旅に出る目的は人それぞれである。
行った先になにか用がある人もあれば
そうでない人もいる。
内田百のように
用も無いのに大阪へ出かける人もいる。
ただしこの場合は百先生も書いているように
着いたら今度は「帰らなければならない」という
重要な用が発生する。



宮脇俊三のように
旅に出ること、つまり列車に乗るという
その過程自体が目的であるという人もいる。
誰もが見落としがちな車窓風景を絶景と感じたり
絵葉書的な美しい風景を平凡な風景と称するあたりは
よほど旅をしていなければ言えないことだと思う。
しかも彼の表現は、その地方の風土などに裏付けられていて
それでいて、その知識をひけらかす事を一切していない。


車寅次郎のように、傷心を癒す目的と
生活の糧とが結びついている旅もある。
ただし彼は映画の中の人物ではるが…


私はどのタイプの人間であろうか。
着いた先にも見たいものはあるけれど
その途中の車窓を眺めるのが
旅のひとつの醍醐味だと思っている。
そいういう意味では宮脇的であるが
せっかく旅に出るのであれば
1等か3等でなければならない
2等に乗っている客は卑しいと書いた
百先生にも相通ずるところがあって
せっかく乗るならグリーン車やビジネスクラス、
そうでなければ新幹線や飛行機などつかわずに
鈍行列車に乗って行きたいと思っている。
無論、用事があって乗る場合
つまり出張などの場合はこの限りではない。
人様から金を出してもらって乗るのであれば
贅沢はいえないのだ。


幸か不幸か、私にはヒマラヤ山系氏のような同行者はいない。
よって旅に出るにも、他人の予定など気にする必要もない。

せいぜい天気図とにらめっこして
いつ出かけるかを決めればいいのだ。


<つづく>
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