世界一周タビスト、かじえいせいの『旅が人生の大切なことを教えてくれた』 

世界一周、2度の離婚、事業の失敗、大地震を乗り越え、コロナ禍でもしぶとく生き抜く『老春時代』の処世術

オヤジの子育て - 旅育 -

2006年09月22日 | 
オヤジの子育て  - 旅育 ― 

僕には三人の子供たちがいる。
娘が二人、息子が一人。一番上の長女は前妻との娘だ。二番目が長男で、下に次女がいる。どの子も目の中に入れても痛くないほど愛している。三人の子供たちを僕の宝であり財産だと思っている。

長女の名前は美絵。前の女房は絵がうまかった。学生結婚して、就職した年に生まれた。そして彼女が四歳のときに別れた。それから二十三年ぶりに再会する。感激した。大学を出、高校の先生になっていた。結婚もしていた。
それから二十三年のブランクを埋める娘との長い旅が始まった、と思った。

長男、将平と次女、ちえりにもお姉さんの存在を初めて打ち明けた。ずっとそのタイミングを計りながら生きてきたような気がする。
美絵には寂しい想いをさせた分、将平とちえりにはそうさせたくなかった。
美絵との四年間は東京でのサラリーマン生活だった。商社マン。国内外を飛び回りほとんど家にいなかった。それでも、週末は海や山などいろんなところに家族で出かけた。だが大阪生まれの女房は美絵を連れて僕の前から姿を消した。

再婚して将平とちえりを授かった。彼らとは四六時中一緒に暮らした。しかも大自然の中で。楽しかった。嬉しかった。ずっと家族と一緒にいられることがこれほどにまで幸せなのかと実感した。

僕自身も小学低学年のころ親のいない生活を数年送ったことがある。寂しかった。その想いは心の奥深いところでいまでも引きずっている。親父が家を出、離婚した後お袋も僕を置いて出て行った。僕は祖父母や叔父、伯母それに従兄弟たちにもまれて暮らした。そのころはまだ大家族主義の時代がせめてもの救いだった。

五年前に他界した僕の親父も旅好きだった。九州のいろんなところに連れて行ってくれた。関門トンネルや天草五橋もなくやまなみハイウエイも開通してなかった時代。自家用車もない当時は阿蘇や天草でも一大旅行だった。親父との思い出は旅に尽きる。
高校生になってやっと友人との旅や、一人旅を覚えた。その下準備をしてくれていた。

僕も旅好きが高じて会社を首になった。ジョークだが当たらずとも遠からず。自由に旅がしたくなって会社を辞めた。そして今の仕事を選んだ。
「好きなときに、好きなところに旅する」を目指して。