英の放電日記

将棋、スポーツ、テレビ等、日々感じること。発信というより放電に近い戯言。

将棋(界)、そもそもの問題 ~nanaponさんところのコメントに、思わず「う~ん」~

2013-05-29 22:10:05 | 将棋
懲りずにタイトルにハンドルネームを付けてさせていただいていますが…(笑)

 そのnanaponさんの『即席の足跡』の「電王戦考察」シリーズの「その3」でのコメントで思わず、「う~ん」と唸ってしまう意見がありました。それは「突っ込み」的傾向があるコメントでしたが、揚げ足を取るようなものでもなく、タイトルに挙げた「そもそもの問題」的なもので、「そう言えばそうだな」というような視野を広げるタイプのものでした。
 まず、元記事について要約しないといけませんね(要約は苦手なんですが)。あ、でも、根本的な問題ですので、nanaponさんが論じている(私も電王戦については、nanaponさんと並列するような記事を書いています)問題を知らなくても、差支えないような気もします。

 電王戦でコンピュータソフトに棋士が1勝3敗1引き分けで敗れ、コンピュータ将棋がプロ棋士を凌ぐところまで進化していることを認識したことを受けて、nanaponさんは、《1.このままソフトが強くなっていったら、将棋は大丈夫なの?って心配。》《2.強い将棋ソフトを作るのは何のためなの?っていう疑問。》という論点を中心に述べています。
 2番の「将棋ソフトをつくる意義」について反応される方が多いようで「ソフト開発の基礎力を養うためや探究心のために行っていて、その開発者がその有用性とか正当性を示さねばならないということではないように思う」「開発の意志を止めるのは困難」などの意見が寄せられました。
 これらの意見は、私の予想の範囲内のコメントです。nanaponさんもそれを踏まえて記事を書いています。

 しかし、その次に寄せられた二つのコメントに「う~ん」と唸ってしまったのです。(もちろん、上記の意見ももっともな意見だと思います)

 このコメントが出た背景を説明するのは引用の連続になってしまい、ややこしくなってしまうのでここでは省略します。気になる方は、「電王戦考察・その3」をご覧ください。
 nanaponさんの言葉(一部)だけ引用すると
「莫大な時間も労力もお金も使ったコンピュータに関わるハード、ソフトの開発、技術革新はどこに向かって進もうとしているのか」
「果たして社会のためにどんな役に立とうとしているのか」という疑問。
そして、「将棋の強いソフトを作ることが人類を幸せにすることに直結するのかどうか」

 何か、大仰な文章ですが、これは引用したコメントを受けて述べたもので、nanaponさんの言いたかったことは、その後に続く文章
「もしも研究開発の目的が達成感充足感とか、知的好奇心のレベルであったなら、今後の将棋のまっとうな発展に対して大きな影響力を持ちすぎるのではないか。
 技術の粋を集めて寄ってたかって神様しかわからなかった将棋を丸裸にしてしまう功罪はいかがなものなのか。
 否定するわけではないけど、一抹の不安がうずまく」

だと思います。

 これって、ソフト(プログラム)研究を否定はしていないけれど、批判をしているように解釈できます。
 でも、この気持ち、私も理解できますし、同じような気持ちを持っています。
 今まで積み上げてきた将棋の技術(定跡、大局観など)を、コンピュータによって凌駕されてしまう……nanaponさんが引用されたコメントには「将棋文化の破壊」とありますが、私も感覚的にはそんな印象を持ちます。
 しかも、将棋ソフト開発者の中に、将棋を愛している方は多いと思いますが、研究の動機や目的がプログラムの研究や開発のためや探究心のために開発した結果であるということ。つまり、将棋を極めるのが目的ではなく、プログラムの研究のために将棋文化が破壊されてしまうことに、憤りに近いものを感じてしまうのです。


 さて、問題のコメントですが、まず、
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「果たして社会のためにどんな役に立とうとしているのか、という疑問。」とあるのですが、それをいうなら、まず将棋そのものはどうなんでしょうか?どういう意義があるのでしょうか?
「将棋の強いソフトを作」らなければ、「人類を幸せにすることに直結」するのでしょうか?私は問いの立て方が間違ってると思うのですが。

私を含めて一般人にとっては、プロ棋士が将棋文化を代表しているわけではありません。(手軽な象徴ではありえますが)
自分が将棋を指すのが楽しいから将棋に夢中になっているし、プロ棋士の将棋が素晴らしいから喜んでみています。
パソコンソフトの利便性も楽しさもそれぞれにしっかりと存在していると思います。どれだけ強くなってくれても文句をいう筋合いはありません。
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 確かに「将棋そのものが社会の役に立つのか?」と問われると弱いですね。まあ、文化やスポーツはみなそういう問いには弱いと言えます。
 しかし、音楽は人の心を安らかにしたり、勇気づけたりできますし、スポーツも感動や勇気を与える面は大きいです。その意味では、電王戦第4局の塚田九段に感動された方が多かったというのは皮肉ですね。
 そもそも、もっと地球的視野で見ると、人間活動は地球にとって、他の生物にとって、迷惑この上の無いことだと言えます。しかし、それはまた別の問題ですね。
 ええ、確かに、将棋は社会にとって、取るに足らない存在かもしれません。なので、「将棋文化の破壊」と熱く語るのは奇異に見えるのかもしれませんね。ただ、出しゃばらせていただくと、nanaponさんの記事は、そこが主旨ではありませんと弁明したいです。
 また、「将棋の強いソフトを作」らなければ、「人類を幸せにすることに直結」するのでしょうか?という問いは、nanaponさんの記事の主旨はそうではなく、どちらかと言うと逆の主旨ではないかと思います。

 後半部分にも、刺激を受けます。
 私にとっては、プロ棋士が「将棋文化の代表者」に思えるのですが、確かにそうではないですよね。将棋を指さなくなって久しくなったので、私にとって棋士の存在が大きくなってしまっていました。
 「パソコンソフトの利便性も楽しさもそれぞれにしっかりと存在していると思います。どれだけ強くなってくれても文句をいう筋合いはありません」
 これについては、先に述べたような理不尽さを感じますが、議論した場合、私の方が分が悪いような気がします。
 ただ、棋士や連盟はもっと危機感を持つべきだと思います。(「電王戦考 危機的状況なんだけどなあ」参照)

 もう一つのコメントですが、これは上記の意見を更に発展させています。
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「本来、将棋のルールは誰の所有物でもないにもかかわらず、
どんなに強くても奨励会を出て日本将棋連盟の正会員にならないと棋戦に出場できないとか、
新聞社が主催した棋戦で勝った人をメディアで持ち上げるという
自画自賛的な方法で社会的な権威をつけてあげるとか、
そうやって手に入れた権威でもって段位を高額で売りつけるとか、
そういうアコギな商売を今までやってきた人たちがいるわけです。

つまりなんの独占する権利もないのにも関わらず、政治的な手法で
将棋に関するいろんなものを実質的に独占することで商売しているという
実に不安定なことを今までずうっとやってきた人たちが強いソフトの出現で慌ててるだけだと思います。
個人的には今までそんな怪しげな商売をやってこれたことが奇跡だと思いますが。

結局のところ彼らが本当に心配しているのは自分たちの"仕事と収入"であって
"将棋の伝統"や"社会への貢献"ではないだろう思います。
別にプロの仕事や収入が減っても将棋の伝統はなくなりませんから、誤魔化されちゃいけません。
そもそも"文化"や"伝統"は"既得権益"の親戚みたいなものですから、なんでも残せばよいわけではありません。
個人的にはプロしか参加できない棋戦は"悪い文化"として潰すのがよいと思います。
利権団体"日本将棋連盟"は"悪い伝統"ですから一度解体するのもよいかもしれません。
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 後半部分はともかく
「本来、将棋のルールは誰の所有物でもないにもかかわらず、
どんなに強くても奨励会を出て日本将棋連盟の正会員にならないと棋戦に出場できないとか、
新聞社が主催した棋戦で勝った人をメディアで持ち上げるという
自画自賛的な方法で社会的な権威をつけてあげるとか、
そうやって手に入れた権威でもって段位を高額で売りつけるとか」いう商売


 そうか、確かにそう言えるなあ。
 なぜ、今まで考えなかったのだろう。最近、石橋女流の対局放棄について書いた際に目にした、LPSAの主張とよく似ているのに。

 たぶん、長年そうした制度が行われており、私もそれがそういうものだと思い、その思想が根付いてしまった。それに、奨励会の厳しさ(若年から長年競争し、高い倍率を勝ち抜いてようやく棋士になれる)を知っていたので、それを否定する気にはなれないからであろう。

 さて、こういった排他的独占形態は、他の競技ではどうなのだろう。
 大相撲が最も将棋に近いように思える。新弟子検査があり、十両に昇進して初めて力士と呼ばれる。
 ゴルフも相当近いように思える。アマチュアも予選に参加して出場権を得られるが、プロのライセンスを取らないと賞金は取得できない。
 ただ、スポーツメーカーやゴルフ場と契約でき、そちらの収入もある。(棋士も講演会やイベントや著書で収入を得られる)
 テニスも似ているが、少しオープンのような気がする。
 卓球、バドミントン、陸上競技、水泳は企業やメーカーとの契約の依存度が高そう。
 あとは格闘技・武道、射的系があるが、プロとして成り立っているのはボクシングが代表的。ボクシングにもライセンスがあるが、運営団体はいくつもある状況。世界チャンピオンになれば巨額を得られるが、日本ランカーぐらいでは副業が必要なようだ。

 と、客観的に考えるため、他の個人競技と比べてみたが、他に例があると言って、それが正しいという理屈にはならない。

 お城将棋の家元制の時代、あるいは明治・大正・昭和初期の推挙による名人時代とかなり棋士あり方も変わってきているが、過去から引き継がれているものは無視するわけにもいかない(かもしれない…弱気)。
 しかし、連盟がその既得権に甘えているというのは事実のような気がする。それと、先にも述べたが、奨励会の過酷な制度を考えると、厳しいことも言えない。まあ、私が厳しいことを言っても何の影響もないと思うが。
 私は、気持ち的に連盟、と言うか棋士に近過ぎて客観的にはなれない。どうなんでしょう?

コメント (11)
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