英の放電日記

将棋、スポーツ、テレビ等、日々感じること。発信というより放電に近い戯言。

『八重の桜』 第23話 「会津を救え」

2013-06-09 22:44:23 | 将棋
「どこで間違ったんだ?会津は。……いや、俺はどこで間違った?
 象山塾で、都で、長崎で……世界を観ようとしてきた。
 10年後、100年後に続く豊かな道を探すはずだった……
 それなのに、会津は今、滅びの道を進んでいる」

 覚馬の嘆きの言葉だが、今回の話を見て、この言葉が私の頭の中を駆け巡った。

(覚馬は、松陰の「天朝も幕府も藩もいらん、只、身一つで立ち上がればよい。立ち上がれ!」という言葉を思い出し、自分のできることがあると立ち上がったみたいだが)


 どこで間違ったのだろうか?
 何が悪かったのだろうか?会津は……

  ………徳川家に、朝廷に、忠義を尽くし、都のために身を粉にしたのに、朝敵に身を落とし、新政府軍に攻め込まれる憂き目に遭うとは…………


1.大局的な目を持たず、徳川家に朝廷に忠義を尽くし、京都守護職を引き受けたこと
2.忠義を尽くし、また、会津を引き立てた孝明天皇が崩御してしまったこと
3.薩摩が倒幕のため、長州と手を組み、会津を切り捨てたこと
4.懸命に尽くした徳川家の宗家・慶喜が自分の身と徳川家のことしか考えず、変わり身の早さだけは超一流だったこと
5.その慶喜があっさり大政奉還をしてしまい、会津が正規軍でいる拠り所がなくなってしまったこと
6.徳川家が大政奉還、江戸城を引き渡すという償を払ったが、会津はそれに見合う価値を持っておらず、徳川家の身代わりの生贄として都合がよかったこと

 などなど、多くの理由や不運が考えられるが(特に慶喜と西郷)、一番の原因は、バカが付くほどの忠義心で会津の民(家臣を含む)を考えなかった容保にある
 先週も書いたが、会津は容保の首をさっさと差し出せばよかった。討伐軍参謀・世良に引き渡せば、喜んで容保の身を引き受け、話がついたであろうに。

 容保が家臣から恨みを買うような悪い性格だったらよかったのに。


江戸城を明け渡し、水戸へと向かう慶喜は、
「これで徳川は残り、江戸も戦火を免れた。
 では、会津はどうなる?

 …………いや……よい」

 慶喜らしい言葉だった。
 

【ストーリー】番組サイトより
 1868(慶応4)年3月、会津討伐に乗り出した新政府軍が仙台に到着。参謀の世良修蔵(小沢仁志)らは同じ奥羽の仙台藩に早く会津を討つよう命を下す。しかし、理不尽さを感じずにはいられない仙台藩は米沢など奥羽の諸藩と結束し、会津救済の嘆願書を提出することに。その知らせを聞いた八重(綾瀬はるか)は、安堵(あんど)する。そして八重と尚之助(長谷川博己)は早速、米沢藩士らに銃の扱いを教える。
 しかし、会津救済の嘆願はあえなく世良によって破棄され、これに怒った仙台藩士らが世良を暗殺。新政府軍と会津・奥羽軍との間で戦いの火蓋が切られる。
コメント
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