ふるさとは みしごともあらず をののえの くちしところぞ こひしかりける
ふるさとは 見しごともあらず 斧の柄の 朽ちし所ぞ 恋ひしかりける
紀友則
かつて暮らしていた都は、以前とは変わってしまっていました。あなたと伴に過ごした、斧の柄が朽ちた場所が恋しく思われます。
詞書には「筑紫にはべりける時に、まかりかよひつつ碁打ちける人のもとに、京に帰りまうで来てつかはしける」とあります。現在の囲碁とどこまで同じかはともかく、当時すでに碁が打たれていたのですね。また、明確に記録にはありませんが、友則が筑紫に赴任していたことがあるのでしょう。「斧の柄の朽ちし所」は中国の故事(※)からの表現で、何かに気をとられていてあっという間に時間が過ぎてしまうことのたとえ。新古今集にもこんな歌があります。
をののえの くちしむかしは とほけれと ありしにあらぬ よをもふるかな
斧の柄の 朽ちし昔は 遠けれど ありしにあらぬ 世をも経るかな
式子内親王
(新古今和歌集 巻第十七「雑中」 第1672番)
古今集撰者の一人、紀友則の収録歌はこれが最後。編纂の途中で没したこともあってか、登場しなくなるのも他の3人より早いですね。
(※)晉の王質が山中で仙童の囲碁を見ていたが、一局終わらないうちに、手にした斧の柄が腐ってしまい、村に帰ると、もとの人はすでに亡くなっていたという故事。(「精選版 日本国語大辞典」より)