流浪オヤジの探検日記

KOBEを拠点に各種イベントや名所・旧跡を見て歩き、紹介していきます。

鈴木商店本店跡地

2020-01-26 | 史跡・旧跡
神戸市中央区栄町通7丁目に「鈴木商店本店跡地」があります。

鈴木商店は、かって存在した(登記上は存在)総合商社です。
同社は、製糖・製粉・製鋼・タバコ・ビールなどの事業を展開し、さらに保険・海運・造船などの分野にも展開していた企業でした。


明治07年(1874年)、兵庫の弁天浜に川越藩の鈴木岩治郎が当時番頭をしていた辰巳屋ののれん分けで鈴木商店を開業
明治19年(1886年)、後に鈴木商店を支える金子直吉が鈴木商店に丁稚奉公として入り、順調に売上を伸ばし神戸八大貿易商の一つに成長
明治27年(1894年)、鈴木岩治郎が死去、その未亡人鈴木よねは、金子直吉と柳田富士松の両番頭に委任し事業を継続


大正8年(1919年)~大正9年(1920年)の全盛時代において、売上げ16億円(当時の貨幣価値)を達成
この額は、三井物産や三菱商事を遥かに上回り、当時のスエズ運河を通過する船の1割が鈴木商店の所有といわれました。
第一次世界大戦での塹壕の土嚢には、鈴木商店のロゴ(菱形にSUZUKIの略記「SZK))の入った小麦袋が大量に使用されました。
当時において、これら資金を提供していたのは台湾銀行でした。
同銀行は、昭和20年(1945年)終戦後、連合軍総司令部により閉鎖機関に指定されて清算後、解散しました。


昭和2年(1927年)3月、当時の大蔵大臣・片岡直温の『とうとう東京渡辺銀行が破綻した』との失言(片岡の発言時点では東京渡辺銀行はまだ破綻していなかった)。
この失言により東京渡辺銀行は実際に破綻、他行でも取り付け騒ぎが発生し、同年3月27日、台湾銀行は鈴木商店への新規融資を打ち切りを通告。
系列化していた第六十五銀行に鈴木商店を支える体力はなく資金調達が不能となり、同年4月5日、鈴木商店は事業停止・清算に追い込まれます。


商標「かね辰
昭和08年(1993年)、株式会社鈴木商店及び持株会社の鈴木合名会社は、負債を完済
昭和20年(1945年)10月20日、株式会社鈴木商店は解散し、清算手続きへ入るが、現在まで清算の終了を意味する『結了』がなされていないとの事
昭和49年(1974年)10月01日、職権により登記用紙が閉鎖されているものの、登記上は両社とも現存


平成29年(2017年)7月7日、鈴木商店OB及び関係者により鈴木商店本店跡地前の公道にてモニュメントを建立
台座部分は、鈴木商店が経営していた『大里だいり製粉所』(明治44年設立)の工場建屋に使われていた煉瓦(レンガ)との事


・鈴木よね:経営には一切口出しせず、大番頭に経営全てを委ね、神戸市立女子商業学校(現在:神戸市立神港橘高等学校)の創設に尽力するなど地元神戸に貢献
 女主人として“お家さん”(おいえさん)と呼ばれ、小説(作家:玉岡かおる)になりました。その後、舞台化及びドラマ放映(読売テレビ開局55年記念)されました。
・金子直吉:丁稚奉公から身を起こし、『大番頭』として大正時代に三井財閥、住友財閥、三菱財閥を凌ぐ規模の企業グループへの拡大し、神戸の産業発展に貢献


大正4年(1915年)、この地にあった当時の高級ホテル『みかどホテル新館』を譲り受け、当地を本店とします。
大正7年(1918年)8月12日、マスコミの誤報により、本店が焼き打ちされて焼失

鈴木商店が関与した事業は、現在の神戸製鋼、帝人、双日、太陽鉱工等々の数多くの企業に継承されています。
近代日本の礎の一端を担った歴史的な価値を知ることができました。
当地における史跡の出会いに感謝します。
★あ(^-^) り(-^ ) が( ) と( ^-) う\(^0^)/★

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 味べい 丼池店 | トップ | らーめん夢屋台 西宮店 »

コメントを投稿

史跡・旧跡」カテゴリの最新記事