新人の 丁稚が走り 花の下
梅士 Baishi
心の準備もないままに、今日は新年度、四月一日である。
職場でも、見知らぬ顔が誰とも知れず、ぎこちなくうろついている。
知らないし、あいさつもないからしゃべりもしない。
一匹狼の昼の獲物を探して歩いていると、「今日から新生活だよな
あ・・・」なんて会話がすれ違い様に左の耳から右の耳にすり抜ける。
そういう日か・・・。
「新酒あります」という旗につられて、福岡の地酒を買った。
かつて、天神のど真ん中に酒蔵を持っていたという大資産家「綾杉」
の新酒である。
新酒は花の季節である。
アルコール少し高め、酒好きには格別にうまい。
それをぶら下げて、結局、いつもの店で春のうどんを食った。
最近、つくづくと反省することがある。
くだらない人間だと思うと、とことん嫌悪し、軽蔑する攻撃性である。
小学生の時から、それがあったことを思い出す。
それを単純に正義感と言ってはならない。
そもそも地球人が嫌いなのかもしれない。
強者でも弱者でも、大衆的なにおいのする奴が嫌いである。
思えば社会主義思想は、思い切り大衆的な感情を支配する政治
的イデオロギーである。
そんな思想に染まっていたとは・・・。
しかし、人間関係は正邪の裁きではうまくゆかない。
くだらない人間にもプライドがある。
理屈とプライドは一致しない。
プライドは尊重してやらなければならないが、その迷惑を顧みない
自己中心や愚かさには憤りを感じるし、打ちのめしたくなる。
礼儀とは、許しの愛なのであろうか。
軽蔑すべき行動はあっても、軽蔑すべき人間はいないというが、そ
こがうまく飲み込めない。
レプタリアンのように、弱肉強食の論理で人類を餌だと言う感覚と
は違うが、大衆というやつがどうにも好きになれない。
しかし、「自分に厳しく、他人にやさしく」という掟はまもらなければ
なるまい。
他人の自尊心は犯してはなるまい。
自尊心こそは人間の個性である。
人を愛するとは、時に愚かな人間の自尊心をいたわるということで
ある。
自尊心を害さないで、その悪行をどう戒めることができるのか。
見て見ぬふりをするべきなのか。
ただ、我慢をして堪忍袋の緒を強くするべきなのか。
結局は、愚かさを裁くのは、その者の自尊心でなければならない。
理屈ではそうなるが、つい、一刀両断したくなる。
その視野の狭さが、緑内障を招いているのだろう。
堪忍袋の緒はある程度強く結んでいなければならないのだろう。
教育に軽蔑はご法度であろう。
愛とはなんとも難しい。
思えば、イエス・キリストも、なんと冷静に、ユダヤ教徒の愚劣な仕
打ちを受けとめたことであることか。
「神の愛が分からなければ、私を見よ」と言われたが、愛とは何とも
耐えがたいストレスであることよ。
それをストレスと感じるのは、やはり、愛が分かっていないというこ
となのだろう。
人類の愚かさを、自分の責任と受け止められてこその救世主であ
るようである。
だから、「人類は愚かだが、あなたも愚かだったではないか」という
のが、原罪というキリスト教の思想なのである。
裁き心の愚かさを戒めている。
罪を犯しながら、その罪をお許しくださいという思想なのではない。
人間は未熟ではあるが、それを罪の子であるというものでもない。
そこを取り違えては、真正なキリスト教ではない。
神は、罪は罪として責任を取れと、その自尊心に訴える。
それが、忍耐強い、神の愛である。
同時に、安易な裁き心で攻撃的になってはならぬと戒めている。
自分がなかなか越えられない、イエス・キリストの壁である。
う~ん、狼に、食いつくなというのか・・・。
その葛藤が月に吠える。
【 映画『ファイナル・ジャッジメント』DVDが発売される 】
映画『ファイナル・ジャッジメント』が遂に、DVD発売となった。
多くの人類に観てほしい映画である。
サロンパスの看板も痛々しい。
人類の歴史に残る映画であろう。
たったの5000円、53ドル、1560バーツ、41ユーロである。
家宝ともなるであろう。
100年後、伝わっていれば、1500万円にはなっているだろう。
サロンパスの久光製薬にとっても、会社の宝となるような一品である。
家に伝えて生まれ変われたら、自分が助かる。
まあ、そういう宣伝ではいけなかろうか・・・。
立憲女王国・神聖九州やまとの国
幸福実現党応援隊・ 梅士党