花嵐 雲の上にも 散るものか
中村 梅士 Baishi
小学校の桜も、昨日、今日の嵐ですっかり散ってしまった。
桜吹雪は舞い上がって、低く垂れこめた雲にも散っただろ
うか。
雷神の花見というのも風流である。
できれば、ビリビリしながら一緒に酌み交わしたいもので
ある。
今日は仕事を間に合わせはしたが、嵐のランニングは見送
りとなった。
春嵐とはいっても風が冷たく感じられた。
気温は11℃だった。
明日は晴れそうである。
さて、福岡県がチャイ・コロ感染抑制のために、キャバレ
ーや大学などを閉門蟄居とした。
要請であるから、従う必要はないが、すでに閑古鳥が鳴い
ていた。
それ以前に、キャバレー桃太郎は長い歴史に幕を下ろして
いた。
ジャズ喫茶、歌声喫茶、クラシック喫茶、キャバレーやデ
ィスコ、そしてフォークソングの時代が懐かしくもある。
今はカラオケ文化なのだろうか。
そういうワイワイとしたところで、ウィルス感染なんて気
にしたこともなかった。
今は、人を見たらチャイ・コロと思えと言わんばかりの人
間不信をマスコミが煽っている。
外に出ること自体が不謹慎だというのである。
潮干狩り、ジョギング、大いに結構ではないか。
不信仰なマスコミ人間こそは感染リスクの高い人種である。
実に迷惑な人種であることよ。
この際、まとめて駆除してもらいたいものである。
宇宙の知性とは、幸福の科学総裁の神性によって間接的に
対話をしているような体験をさせてもらっているが、自分で
も対話を試みている。
それで、頭が冴えて眠れなくなることもあるのだが、楽し
い。
空を飛ぶことは就寝後の日常になっている。
もっと、宇宙の日常を知りたいものだ。
経済活動、政治の仕組み、スポーツ、文化、ファッション、
教育などである。
まだ、人間には知る資格がないという事なのかもしれない。
現代は悪魔的なマスコミや共産主義などが跋扈する試練の
時代であるが、無限の可能性もまた、リアルに実感される時
代である。
但し、可能性を実感できるためには信仰心が欠かせない。
天と地の差がそこに生まれる。
信仰の格差が天と地に分かれている。
不信仰は人権ではなく、罪である。
神を信じない人間が他を害していることを知らなければな
らない。
正しい信仰こそがユートピア思想でもあるのだ。
日本国独立宣言・神聖九州やまとの国
New Asia Happiness Party