「札幌護国神社」内の「彰徳苑」にある戦争慰霊関連施設。
続きはまずこちらから。
「ノモンハン事件」って、日本史で学習したことがあったなと思い出しました。
旧満州国興安北省ホロンバイル草原ノモンハン地区において、満蒙(満州と内蒙古(内モンゴル))国境線をめぐり、昭和14年(1939年)5月11日から同年9月16日に至るまで展開された、日満連合軍とソ連モンゴル連合軍による闘いですが、当時、北海道からも第七師団の兵士がこの闘いに身を投じ、約1,500名が犠牲となったことから、その歴史を後世に伝え、犠牲となった兵士の遺徳を偲ぶべく設置されたものです。
続いてこちらの「屯田兵招魂之碑」は、札幌に現存する石碑の中で最も古いものとされるもので、明治12年(1879年)2月に、西南戦争において殉死した屯田兵の慰霊目的で、現在の北区北6条西7丁目にあった「偕楽園」(こちら)に建立されたものでしたが、明治44年(1911年)に日露戦争に従軍した札幌連隊軍人の戦死者を合祀して、現在の中島公園に移設され、昭和8年(1935年)に現在地に移設されています。
こちらの「忠魂碑」も、同様に、日露戦争に従軍した兵士たちの慰霊碑として建立されています。
「山鼻神社」とあります。
「山鼻神社」とは、屯田兵村居住者の氏神として崇められていた神社でしたが、歴史については謎が多い存在となっています。
現在は、「札幌護国神社」の境内社である「多賀神社」に合祀されていますが、元々は明治23年(1890年)5月17日に、当時の山鼻屯田兵村の南側に建立されたとされていました。
山鼻地区に屯田兵が入植を始めたのは明治9年(1876年)5月であることから、それから14年も経って守護神たる神社が建立されるというのは、いささか不自然ではないかという考えもあったようですが、平成2年(1990年)になって、札幌市内の建設会社の敷地内から「山鼻神社」という字が刻まれた石祠が発見され、そこには「明治9年2月」と刻まれていたそうです。
このことから、5月の入植以前に先発隊として来ていた人たちが、守護神たる神社を建立していて、そちらが最初の「山鼻神社」であったものという推察ができるようですが、その詳細については未だ謎のままのようです。
続いてこちら。
「メレヨン島」という地名は初めて聞いたと思いますが、どのような出来事があったのでしょう。
「メレヨン島」は、インドネシア共和国の一部であるニューギニア島の北方のカロリン諸島で構成されるミクロネシア連邦にあり、第二次世界大戦中この島に従軍していた守備隊が米軍の猛攻撃を受け、総員6,800名中実に5,200名が殉死するに至り、このうち北海道出身者は約1,400名を占めていたそうです。
当時、兵士たちは、蛋白源として小魚やネズミ、ヤドカリ、トカゲ、ヤシガニを食べて飢えをしのいでいたそうですが、結果的に餓死によって壊滅状態となったことから、戦わずして玉砕した「悲劇の島」と呼ばれているそうです。
次は、「北千島慰霊碑」。
終戦後、日本軍の一部は千島列島北部に残留していましたが、占領を目的としたソ連軍の奇襲攻撃を受け、相手に壊滅的打撃を与えるも、後に停戦協定が結ばれて武装解除を余儀なくされ、戦闘とともに極寒のシベリアに抑留され、強制労働の末多くの兵士が命を落としたことが書かれています。
これは聞いたことがありましたが、日本軍がソ連軍に壊滅的打撃を与えていたということは、今回調べて初めて知りました。
「南方地域戦死者慰霊碑」。
「南方」という響き、戦争関連の資料(歴史資料や、小学校の国語の授業で出てきた戦争関連の物語)で目にしたことがあったと思います。
これは、パプアニューギニアの戦線から生還した「伊藤義顕」氏が、戦友の霊を慰めるために自費で建立したものだそうです。
「北海道全海軍英魂之碑」。
日本海軍創建以来、日清戦争、日露戦争から、近くは太平洋戦争に至るまでの多くの海軍関係戦没者及び戦後の物故者の霊を祀り、永遠にその遺徳を偲ぶ目的として建立されたそうです。
その遺徳を偲ぶことが、日本の恒久の平和と郷土の繁栄を願う象徴となるであろうことが、この碑にも刻まれています。
そして最後は、「沖縄戦戦没者慰霊碑」。
沖縄戦の全戦没者は24万人、日本人戦没者22万6千人のうち、都道府県別では、北海道出身の将兵が1万8百人と最も多かったのだそうです。
これを知って、正直言葉を失くしました。
終戦から78年。「彰徳苑」に建立されている数多い慰霊碑を見て、これらの碑が伝えんとしている事実の重さを実感することができました。
また行く機会を作って、理解を深めていきたいと思います。