北の風に吹かれて~独り漫遊記~

町歩きを中心に、日々の出来事を綴ります。 
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彰徳苑~1~

2023-09-09 16:48:18 | 札幌

 

「札幌護国神社」の一角に、「彰徳苑」という、各戦争の慰霊碑などが数多く建立されている場所があります。

行ってきたのは先月15日で、終戦の日に当たり、札幌市内の戦争関連施設で、どこか行きやすい場所はと考え、浮かんだのがここでした。

 

 

「彰徳苑」には、これだけの数の慰霊碑が設置されています。

 

 

昭和60年(1985年)6月に札幌護国神社を参拝された三笠宮崇仁親王により、「彰徳苑」と命名されたことが記されています。

「彰徳」とは、「人の徳行を世に広く知れ渡るようにすること」という意味だそうですが、数々の戦争における犠牲者のことを忘れずに、広く知らしめるという意味が込められているのでしょうかね。

 

 

一つ一つ紹介していきます。

入口から入ってすぐの所にあるこちらは、「砲兵第七隊榮門哨舎」。

兵団に出入りする者を警戒する場所として使われたもので、戦中当時は旭川に所在した第七連隊衛門に置かれていたそうです。

 

 

全部は読み取れませんが、軍としての厳しい規律が書き残されています。

 

 

 

こちらは、その「砲兵第七隊榮門哨舎」と関連のある「北鎮砲兵発祥の地」の碑。

「野砲第七連隊」の前身である「独立野戦砲兵大隊」が、日清戦争の後、明治29年(1896年)12月札幌の地に創設されたことを記すもので、旭川にあった「砲兵第七隊榮門哨舎」は、これと並び立たせる意味で、現在は札幌に存在しているそうです。

 

 

 

「樺太大平炭鉱病院殉職看護婦慰霊碑」という名前の碑。

昭和20年(1945年)8月、樺太(現在のサハリン)にソ連軍が突然侵攻し、恵須取町大平地区という所にあった炭鉱病院看護婦23人も夕刻になって避難を始めたが、途中のソ連軍に退路を断たれた看護婦らが、17日未明に集団自決を図り6人が絶命したという、あまりにも悲しい事件を後世に伝えています。

 

 

「歩兵第二十六連隊軍旗奉焼之碑」。

「歩兵第二十六連隊」とは、明治32年(1899年)に、現在の札幌市豊平区月寒に第1大隊が編成された大日本帝国陸軍の連隊の一つで、その連隊に所属していた兵士の功績を称えるものとなっていますが、終戦後の昭和20年9月10日には、軍令により軍旗を奉焼させられたそうで、功績だけでなく、敗戦による軍旗の奉焼を目の当たりとした兵士たちの悔しさを伝えているという意味もあるとのことです。

 

 

「札幌招魂社」とは、昭和8年(1933年)に創建された「札幌護国神社」の前身で、翌年にこの碑が刻まれ、同61年(1986年)に現在地に移転しています。

 

 

 

「頌徳(しょうとく)碑」というこちらの碑は、「財団法人帝国在郷軍人会」の創立者で、「正五位勲三等功四級」の位にあった「松本騰四郎」という人物の功績を称えて建てられたものです。

当初は中央区旭ヶ丘の地に建てられていましたが、そこには、歩兵第二十五連隊が管理する火薬庫があり、「松本騰四郎」は、その地域の分会長を務めていた人物でした。

 

 

「尼港殉難碑」とあります。

「尼港」とは、ロシア極東部に位置する、現在の「ニコラエフスク・ナ・アムーレ」市のことで、この碑は、大正9年(1920年)3月から5月にかけて、「赤軍パルチザン」という、ソ連軍が指揮した共産主義のゲリラ部隊による住民大量虐殺事件、通称「尼港事件」による殉難者の慰霊碑です。

当時の尼港には、一般の日本人のほかに、旭川の第七師団及び月寒の第二十五連隊の守備隊が駐留していましたが、赤軍パルチザンの襲撃に対して決起した両部隊は全滅し、日本人居住者を含む約6千名が虐殺されたとされています。

 

 

 

 

 

 

「アッツ島」って聞いたことがあるという方も多いと思います。

アリューシャン列島に位置する、現在はアメリカのアラスカ州に属する島です。

昭和17年(1942年)6月、日本軍は、アリユーシャン列島のアッツ島、キスカ島を占領し、アメリカ軍の反攻に備えていましたが、翌年5月にアメリカ軍がアッツ島に上陸して攻撃を強めてきました。

「山崎保代大佐」を長とする守備隊は、5月29日山崎部隊長を先頭に敵陣に突入し、日本で初めて、守備隊全員が玉砕するという事態となってしまいましたが、このことを後世に伝える目的で、昭和43年(1968年)に建立されました。

また、碑の側には、当時この戦闘に参加していた「ジェームズD・ブッシュ」氏が、昭和44年(1969年)に札幌護国神社に参拝した縁で、後にアッツ島を再訪して採集した石を、日米両国民の平和を願う心の印として、同63年(1988年)に贈ってきたものが保存されています。

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