龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCのファンです。
いわきFCの応援とキャンプ、それに読書の日々をメモしています。

『「物質」の蜂起をめざして-レーニン、<力>の思想』白井聡を読み中。すげえ。

2011年11月25日 20時53分16秒 | 評論
『「物質」の蜂起をめざして-レーニン、<力>の思想』白井聡を読み中。すげえ。

読む前に想像していたものよりずっと腑に落ちるし、なるほどそこかあ、とも思う。
しかし、それにしてもレーニンを、ソビエト連邦の誕生→終焉→資本主義の全面化まで来てしまったこの「今」において研究対象とする知的膂力というか、へそ曲がりさ加減というか、そこに痺れながら読み進めている。
カントとレーニンは「モノ自体」に対する姿勢として奇妙な「近さ」があるっていう言及にやられた、と思う。

やられたもなにも、レーニンのことなんてからっきし知らないで「旧世代の遺物」と思っていただけなのだから、何もやられてさえいないただの「無知」というべきなのだが、それにしても、この白井聡という人の「暗い情熱」というか(笑)、もとい、凄みのある切れ味というか、それでいて「まっとうな感じ」がする不思議さというか、國分さんとのトークイベントがなければ絶対手にも取らなかった、と思うと、それもまたびびることではある。

全然分かっていないので解説めいたことは言えないが、それでも、今、脇において併読している東浩紀『一般意志2.0』のリーダビリティの高さとは全く違うのだけれど、そこに引用されているルソーの思想を読みながら、白井さんの「近代における人間=主体」を壊す力としてのレーニンの思想を、2011年の「今」として同時に、肌のひりひりした部分で受け止めている。
それはもちろん「本来性なき疎外」っていう國分さんの提示とも呼応している。

残念ながら「リトルピープルの時代」(宇野常寛)は私にはよく分からないんですが。
村上春樹体験も違う感じだしね。ま、村上春樹自体に対する私自身の齟齬とのねじれた感じもあって、最初でつまずいちゃったから、こちらはとりえず保留=宿題。

この週末は白井聡の「レーニン」にかなりやられています。