龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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今朝、犬が死にました。

2011年11月30日 20時53分53秒 | 大震災の中で
11月に入ってから体調を崩し、点滴をやったり、バスタオルを担架代わりにして運んだり、いろいろ世話をしていたうちの老嬢(柴犬)が今朝亡くなった。
享年11歳。ちょっと柴犬にしてはちょっとまだ若いが、肝臓全体に広がったリンパ腫だから仕方がない、との見立てだった。

不思議なもので、最後は茶の間にケージを置いてそこで寝ていたのだが、足や背中を見ているだけでは生死は分からない。

でも、朝起きて顔を見た瞬間、死んだことが一瞬で分かった。

生きるとは、その顔の表層にいっときも止まることなく、不断にめまぐるしく浮かんで来つづける表情のことなのだ。

その表情と犬の適応している世界像との間に乖離はない。

橋下市長と違ってね(いや「人間」はすべからくペルソナ=生きる世界像の全てではありませんからね。でも今だから比較しちゃう<笑>)。

優(彼女の名前でした)の表情は、生きているわけだから寝ていてもこちらが名前を呼んだだけで、薄目を開けてこちらに意識を向ける時、彼女自身の世界内での存在のありようが顔の表情に如実に表れる。

その表情は彼女が生きる世界を正確に反映しているだろう。
動物が生きるということは、その世界との乖離のなさ、を生きることなのだろう。

人間は違う。飼い主だった母は
「父親が死んだときも、連れあいが死んだときもこんなに泣かなかったのに」
といって泣きながら笑っている。

そうなのだ。犬は、人間の手のひらの中で終始ケアされ、その世界に正確に自らを配置して生ききる。
ところが、人間はそこから「成長」し、その世界との乖離を生きることになっていくだろう。

だから、老母は、父親や夫の死を、飼い犬の死ほど純粋に「泣く」ことはないのだ。
人間が人間を喪失することは、その世界の正確な配置の喪失ではない、ということだろう。

疎外を生きるといってもいいし、差異を生きるといってもいい。
「本来あるべきもの」「同一性」が失われているのではなくて、人間が言語において生きるということは、この飼い犬(動物)と飼い主(世界)のような関係性ではない場所に身を置くという意味で、本質的に「差異」が先行するということなのだろうと思う。

人は、死んでから後、むしろその存在が次第に変質しつつこちら側の心の中に位置を定めだそうとするかのようだ。

掌の中で生きて死ぬ幼子のような飼い犬とは全く違った形で。

人を育てることとペットを育てることとの意味の違いも、自分の頭で分かるのではなくて、その老犬の死の瞬間の表情の喪失の中にちら、とあくまで表面的、表象ならざる表層の喪失の中に見えた気がした。