ダライ・ラマ14世講演を聴いていて、最も痛切に感じたことは、
「英語が分かったらいいのに」
だった。
講演は、一区切り法王が喋ったら、そこについて脇にいる通訳の方が日本語で語り直すという形式で進行した。だから、内容は講演時間の正味半分。もどかしい。
加えて、英語が分かっている人はどんどん理解していくのに、こちらは通訳の方を通してだから、臨場感にズレが生じる。小さなことのようだが、法王はそんなに難しい単語を用いているわけでもなければ、そんなに高速で喋っているわけでもない。
このダライ・ラマ法王の講演ぐらいは自分の耳で聞き取れる「べき」だと、思った。
いまさらこれから英語の「耳」を育てるのか、と思うと正直げんなりする。そしてもう日本語もよく聞こえなくなってきているのに「無理」とも思う。
でも、語学は必要だね、というのが結論。日本の若者、頑張れ!おじさんはもうリタイアするが(笑)。
二つ目に感じたことは
secular(世俗の)
と言う言葉がものすごく繰り返されていたこと。
もちろん、単なる「仏教」の立場からというポジションじゃないんだよ、と説明する必要があるのは分かる。
でも、途中でiPhoneで辞書を引いてようやく分かったのだが、そういう気になるキーワードだった。
これは、ある意味で「公共性」概念と響き合うものなのじゃないか?
「宗教の倫理は世界を包摂しない」
というのは、宗教VS世俗っていう対立じゃなくて、「複数性」をバラバラにせずにその「世俗的」なる場所でどう繋げていくか、っていうその「場所」の問題であって、それはむしろ「公共的なるもの」に接続していく概念かと思われた。
冒頭部、「亡命者であり難民でもあるからこそ様々異なる考えと出会った」といい、末尾には「70億いれば70億の問題がある、だからDon't Worry」と締めくくっているのも、多様性というか寛容性というか、そのあたりを示唆しているのかな、と感じた。
言っていることは「当たり前」で、一瞬あっけないぐらいだが、その「姿勢」をゆっくり読んでいくと滋味深いんじゃないかな、という懐の深さを感じる。
魅力はむしろそちらの方にあるかもしれない。
質問させてもらったのだけれど、意図が十分伝わらなかったようで残念。
ま、それもご愛敬でしょうが。
「英語が分かったらいいのに」
だった。
講演は、一区切り法王が喋ったら、そこについて脇にいる通訳の方が日本語で語り直すという形式で進行した。だから、内容は講演時間の正味半分。もどかしい。
加えて、英語が分かっている人はどんどん理解していくのに、こちらは通訳の方を通してだから、臨場感にズレが生じる。小さなことのようだが、法王はそんなに難しい単語を用いているわけでもなければ、そんなに高速で喋っているわけでもない。
このダライ・ラマ法王の講演ぐらいは自分の耳で聞き取れる「べき」だと、思った。
いまさらこれから英語の「耳」を育てるのか、と思うと正直げんなりする。そしてもう日本語もよく聞こえなくなってきているのに「無理」とも思う。
でも、語学は必要だね、というのが結論。日本の若者、頑張れ!おじさんはもうリタイアするが(笑)。
二つ目に感じたことは
secular(世俗の)
と言う言葉がものすごく繰り返されていたこと。
もちろん、単なる「仏教」の立場からというポジションじゃないんだよ、と説明する必要があるのは分かる。
でも、途中でiPhoneで辞書を引いてようやく分かったのだが、そういう気になるキーワードだった。
これは、ある意味で「公共性」概念と響き合うものなのじゃないか?
「宗教の倫理は世界を包摂しない」
というのは、宗教VS世俗っていう対立じゃなくて、「複数性」をバラバラにせずにその「世俗的」なる場所でどう繋げていくか、っていうその「場所」の問題であって、それはむしろ「公共的なるもの」に接続していく概念かと思われた。
冒頭部、「亡命者であり難民でもあるからこそ様々異なる考えと出会った」といい、末尾には「70億いれば70億の問題がある、だからDon't Worry」と締めくくっているのも、多様性というか寛容性というか、そのあたりを示唆しているのかな、と感じた。
言っていることは「当たり前」で、一瞬あっけないぐらいだが、その「姿勢」をゆっくり読んでいくと滋味深いんじゃないかな、という懐の深さを感じる。
魅力はむしろそちらの方にあるかもしれない。
質問させてもらったのだけれど、意図が十分伝わらなかったようで残念。
ま、それもご愛敬でしょうが。