龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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迷ったので(のだが)書いておく

2011年11月29日 22時48分50秒 | 大震災の中で
橋下徹大阪市長の当選が決まった。
公務員の扱い方や教育行政の内容については賛成できない。

そして橋下氏の言う「民意」には息が詰まりそうだけれど、それでもその閉塞感を打破してほしいという思いは、どこかで私自身も共有している。

橋下氏が独裁を一人でなし得る訳じゃない。
むしろ、平松氏を束になって推薦しても敵わず、当選した翌日には橋下市長に秋波を送る既成政党にうんざりするし、選挙中のネガティブキャンペーンにも腹が立つ。
私は大阪市民じゃないから橋下氏の独裁に責任は負えないが、そのまま単純に国政レベルにたどり着く「独裁」じゃないだろう。
政治の節目はこれからいくつもある。
この2011年は、人為の裂け目という大災害と、地域ローカルな政治とグローバルな経済とがねじれながら出会った年として記憶されることになるだろう。

小田嶋隆がコラム「ア・ピース・オブ・警句」ムッソリーニの例を出して暗に橋下氏の独裁的な「正義」を批判し、Twitterで揶揄していた。

正面から「独裁」だ、といっても埒はあくまい。

声高な反対を唱えるだけなら、むしろその「独裁的」と批判される「正義」は力を得て、不正義への堕落さえをはらみながら拡大させていく手助けになるばかりかもしれない。

こういうと、橋下氏の全てが悪いみたいだけれど、そんなことはない。だから話がややこしいのだ。

教育と行政に対する姿勢はもう絶対反対なんだけどね。

そういう対立する論とは別に、橋下徹氏の表情は、いつ見ても両義的だ。

タメされているのは間違いなく、カレではなく、私だ、と思う。そういう顔をカレは持っている。

自ら感情的な身振りをし、時には相手を感情的にさせる身振りをする。
ナイーブな面をさらしつつ、十分にしたたかな側面をみせて多面的に寄り添える。
私は10年ほど前、政治家は言葉が貧しすぎる、と思っていた。
橋下氏は、言葉の手練れだ。相手に合わせて、言葉をの欲望レベルで権力行使の「力」として使用できる。

繰り返すが、それ自体を「悪」といってみても、おそらく埒は明かない。


たととえば、
「世界の中で競争力を持った大都市・市民を」
というグローバル化に敢えて乗ろうとするその動きを、内田樹は斜陽鎖国ニッポンを称揚しながら批判するけれど(そしていつも言うように、内田樹の「処世術」というか「身の処し方」としてはそれでいいのだろうけれど)、私にとっては、その方法は射程距離半径がいささか短すぎる。

むしろ萱野稔人が『ナショナリズムは悪なのか』で展開するように、ナショナリズムが近代国民国家を作ってきた現実を踏まえつつ、グローバリゼーションとナショナリズムの関係を、国家という「暴力装置」において、権力の作動をどうコントロールするのか、を考え、行動していくことが必要だ。

橋下氏の言動を「独裁」と声高に言い立てるのは、批判者自身が、自らの「正義」を、権力に手を染めない無責任な形で、橋下氏の権力(ある意味で暴力をはらむ)と対置することになってしまうだろう。
そうしたら、橋下氏の支持者は「勢いづく」ばかりだろうし、「正義」の旗の奪い合いにしかならない。

それはニューズウィーク誌日本語版の指摘するように、ティーパーティ的な元気をむしろカレに与えるだろう。
そういう元気の与え方は、カレにとっても幸福ではないんじゃないかな。
余計なお世話かもしれないけれど。


橋下氏は、「暴力的」な提案の言説を明らかに意図して行使している。

ようやく枝野さんとか橋下さんとか、三百代言(弁護士のことです)出身の人間の言説が、人前で堂々とできる時代になった、ということでもあるか。
ことばを扱う仕事をしている私としては、言葉を「武器」にして政治をする時代になったことを、正直うれしく思っている。武器を持って戦争をするよりはいい時代になったものだ。

でも、それはある意味で、無知だったり、素朴に言葉の使い方を知らないでいると、とんでもないところに連れて行かれる、リスクを背負うということでもある。
そして権力行使のための言葉は、最終的に物理的暴力=権力を背景に持つことになるわけだから。

橋下氏はとりあえず「うますぎる」両義性を持っているのだ。政治で使うには「危ない」ような。
それは、誰もが共有する危惧ではないかもしれない。

しかしとにかく、橋下徹氏が投げている表情と言葉の表象の「ボール」は、私にとって目下とても大きな課題なのである。

アーレントがアイヒマン裁判で、彼自身の責任を問うこと、を丁寧に論じている(『責任と判断』)が、それを思い出している。

橋下市長の言葉にうなずくにしても、反対するにしても、どこで自分の「責任と判断」をするのか、が問われる、そんな気持ちにさせる存在なのだ。

教育に対する姿勢は正直噴飯ものだ。到底容認しがたい。
(これについては別途論じる必要があります。宿題です)
公務員に対する扱いだって、ちょっとひどいなあ、それって既得権者として「普通の労働者」をつるし上げるやり方じゃん、と思う。
たぶん、橋下市長は法律家だから、行政の法律がんじがらめ状態のヒドサは十分に分かっていると思う。
それは現場の問題だけでないことも百も承知だろうと思う。
その上で、生活保護や文化行政や教育、原発行政など、叩きやすいところから叩いている。

関西電力は敵とするに十分な相手だと人はいうだろうか。

でも、東京都と大阪府の主張が脱原発を言えるのは、地方じゃないから、にすぎない。

橋下氏はルサンチマンを持って閉塞感がある人の気持ちを誘惑する。
あるいはそれを上手に力学として追い風にする。
でも、「動かずにいると茹でガエルだよ」という閉塞感を打破しようとする人気は、閉塞感という負の感情を前提とした権力作用になっていきはしないか。

だから、言説は自然と糾弾スタイルになり、それでいて簡単に「融和」するなんてことも言い出せる。

橋下氏が生来持っているであろうバランス感覚を誰のために、なんのために、どれだけの限定性を持って行使するのか。

それは、ヘタをすると「タメ」を失って、消費の論理を徹底する危うさが滲むと思う。

おそらく問われているのはそこだ。

橋下氏がその能力を何に使うのか。
その「力」の行使が、様々なところで起こっている「近代」のひずみを、回復不可能なところまで推し進めていくのか。その先に何が見えてくるのかこないのか。

簡単に答えの出る問いではない。
閉塞したまま立ち尽くせばいいってものでもないしね。

彼の提示するもの以上に魅力のある「力」の行使、権力のデザインができるのか?
素人の自分にできることは限られていると思うが、どんな権力行使の絵柄を描けるのか、が市民一人一人に問われているのだ。
橋下氏の当選で、そんなことをとりあえず考えた。