龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCの応援、ソロキャンプ、それに読書、そしてコペンな日々をメモしています。

『哲学大図鑑』三省堂 がお薦め。

2012年11月02日 21時53分50秒 | 評論

『哲学大図鑑』三省堂のお薦め

http://ryuuunoo.jugem.jp/?PHPSESSID=3a6e4fe48deeb1f49f41e06572c31c8b

を、メディア日記に書きました。
この本、おもしぇえです。
なんだろう、今までのスタンダードな哲学史とか早わかり紹介とは違っていて、一つ一つの哲学者の勘所を丁寧に教えてくれる本になっています。
もちろん、見開き2ページ~4ページ(カント・ニーチェ・マルクスは6ページ)ですから、書けることは限られている。

当然、その限られた中で何を書くか、何を書かないか、がこういう本のポイントなんだけど、遠近法が昔と確実に変わってきたのを感じるのです。

数千年の時を経ても、かつての哲学者たちが向き合った課題は「問い」として意義深いよねっていう「生きたサンプル」を提供してくれている、その感じがいいんだなあ。

それは、書かれている内容の深さというより、デザインの問題のような気もする。
本の装丁もそうだし、大きさもそうだし、図解(マップ)もそうだし、語られ方もそうだし。

そう、哲学とその周辺が、いよいよ最近、「語られ方」に関心を抱きだしたっていうか、そういう感想を持っています。

だから最近、哲学が面白いのだと思う。
それは、かつての哲学なるものの有効期限が切れたということなのか、そういう哲学の「文体」に興味を持つ人が増えたというだけなのか、私自身の関心がそういうところに向かいだした、というだけなのか分からないけれど。

哲学も、文章として読み得る、としなたら、これほど幸せなことはありません。
なにせ哲学っていうのは、用語の定義が超絶技巧的に面倒で、絶対「読めない」もの、っていう固定観念があったからねえ。

専門家が読むときには、当然そこをクリアしなければ何も言えないっていうことはあるんだろうけれど。

その辺りも面白い課題が埋まっていそう。
哲学の文体問題、これも宿題ですね。



市場の魅力(3)

2012年11月02日 20時16分08秒 | 大震災の中で
市場が面倒だって話じゃなかった。

ほとんどある意味街のスーパーより便利だったりもするのだ。
そして、新鮮で、安い。
だから、売れる。
そしてそれが持続していける。

今の福島には、夢のような話だ。
でも、そういう発信の場所は、地球上のどこにでもあるべきだし、必要だし、人間が生きていく限り、その営みが集まっていく場所は必要だ。

ただの自然なんてモノ自体と一緒で触れないものだし。
ただ、そこが難しいところで、私たちは「自然」を人間の「世界像」の中で繰り返し定位し、その価値を生み出していかずにはいられない存在だ。
農作物も海産物も、自然の「世界化」によって、「自然」を対象としてその豊かさを享受するすぐれて人間的営みの中で初めて手に出来るものだ。

だが、だからといって、「火」はちょっと使うのと、うんと使うのとでは全く違う。

黄昏れたバランス、とほほなほどほどの豊かさ、貧乏でも

そういうようなリニューアルが、必要なんじゃないかなあ。
度合い、だよね。
それは、環境というか、自分の生きる居場所というか、そのある程度の広がりの中でのバランスを考えるということでもある。

朝市が心に凄く響くのは、朝市に登場できるプレーヤーって、近場でなければならないんだよね。
そこ、とても重要。

その「近場」を危機に陥れる原発は、(とくに青森)、止めといた方がいいと思うんだけどねえ。
でも、福島の第一原発だって、東電社長は5、6号機は廃炉を明言しない。
彼らには彼らの論理があるんだろう。

だとしたら、私たちは私たちの「近場」の主張を、粘り強くしていく必要があるんじゃないか。
雇用の問題とか、地域振興の問題とかは無論ある。
でも、それの最終的切り札がこんな事故をもたらす原発でなけりゃならないってことでもないだろう。

福島の民ぐらいは、きちんとこれにNoを言ってもいいんじゃないかなあ。
そして、それを言うために必要なことのヒントが、近場の踏みとどまりを支えるシステム、の話になっていくんだと思う。



神子田朝市(盛岡)のこと 市場の魅力(2)

2012年11月02日 19時30分33秒 | インポート
もう一つ、印象的な朝市がある。
それは岩手県盛岡の

神子田朝市

だ。ここは毎日開催されているから、本当の意味で地元の市場。

八戸の岸壁埠頭と違って、限られたスペースに、びっしりとお店が並んでいる。
月曜を除く毎日開いているから、地元の密着度もちがっている。

どちらも観光客をうけいれているが、観光産品中心ではないところも共通している。

ただ、市場のタイトさ、は神子田の方が上だ。
八戸の方が週一だからイベント性が高い。

それに対して神子田は、毎日の台所の感じがある。
それは、売っているもののちがいというより、売っている人たちの、そして買って行く人たちのスタンスの違いだろう。

たしかに買い物が手軽なのは、スーパーマーケットかもしれない。

でも、スーパーのそれは、売り手と買い手の関係性が一旦断ち切られた上で再編制された流通の便利さに過ぎない。
そして、それでいいじゃないか、と思って僕らはずっとやって来た。

今更「市場」かよ、と言われてしまうかな?

でも、大震災以後、原発事故以後の、私たちの近代的かつ文明的なシステムが通用しないこの人間の営みの薄皮が剥がれてしまった「ナマ」
の様子をずっと見続けていると、人と人とが出会って、作った人の手から手渡してもらうことがどんなに大切か、がよく分かってくる。そういうことだと思う。

福島米を売るためにはセシウムの全袋検査もしなきゃならない。それはやり続けなきゃならない。忘却装置の作動を待ってはいけない。

と同時に、人が人と直接出会う場所を、例えば市場のような場所を、用意し続けねばならない、そう思うのだ。

それは、面倒、だろうか。

うん。
「スイッチをひねれば電気を使える生活」に対する依存を解かなければ、この便利というベクトルは容易には回避できない。それはそう。

でもね。

面倒な方がいいこともある。度合いというか程度というか、バランスというか、中間領域の手渡し感覚を失った便利さが、それだけで一元的にどこまでも伸びて行くというのは理性(1)の描く幻想だろう。
少なくても、私は、私の目覚めた理性(2)は、そう呟いている。

理性(1)だけに任せておくはなしではなくなった、と。

朝市は、その理性(2)が大きく反応するシステムだったということだ。

郊外型ショッピングモールの楽しみ方と、どう比べたらいいのか、はたまたアウトレットのワクワクと、どうちがうのか。
モノを売り買いするということひとつとってもいろいろ考えされる。
ここから先はまた宿題だ。