8月12日(土)曇り一時激しい雷雨【若き日の行脚のこと】
古い荷物の片付けをしていたら、二十年以上前の日記が出てきた。その中に、名古屋の尼僧堂を送行(ソウアン)して、埼玉の得度の師匠の寺(東松山淨空院)まで歩いて帰ったときの一冊があった。その時日記を付けていたことすらも、すっかり忘れていたのだが、思いがけない一冊の発見である。
今、地図帳を手にして行脚の足跡を辿ってみたが、我ながらよくも歩いたと感心した。名古屋の千種区にある尼僧堂を出発したのは七月の二十六日、暑い夏の日であった。師匠にお盆までには帰ってこい、と徒歩で帰ることの許可を頂き、歩きはじめたのであった。電車で一息に帰るには、尼僧堂でのことはあまりに受け入れがたい体験であった。あまりに理不尽な経験を噛みしめるためにも歩いて帰ろう、と考えたのである。尼僧堂での体験を書くことはここでは控えたい。
しかし、歩き始めて程なく足にできたまめの痛みに泣いた。そして歩き始めの三日間ずぶぬれになって歩いたことが思い出される。雨だからと雨宿りをしていてはお盆までには帰れそうにない。思いきって雨の中に身をさらしたら覚悟ができた。三日間の雨の洗礼のお陰で、その後のどんな天候にも足がすくむことはなかった。
長野県に入る前に少し寄り道をして、十日間の断食修行やらのお世話になったあるお寺の奥の院に立ち寄った。それは設楽町というところの山の奥にあった。後で分かったことだが、私の嗣法の本師にあたる余語翠巌老師は、この町で生まれ育っている。この辺りは山また山で、峠を越すと一つ村落があり、村落を過ぎるとまた家の灯りの一つもない山の中を歩くようになる。
昼はあまりに暑く、主に夜の間歩いた。お陰でいろいろと面白い経験をした。山中で道に迷ったのではないかと不安になって、丁度通りがかった車に道を尋ねようとしたが、幽霊と間違われたこともあった。愛知県と長野県の県境辺りを歩いたときは、これこそ無数というのであろうというほどの蛍、蛍、蛍の光に囲まれて歩いたこともあった。
根羽村というところで飲んだ水のおいしさは今でも忘れられない。あの水を飲みにまた行ってみたいと時折に思い出すほどである。長野に入ってからは天竜川に沿って153号線、三州街道を北上した。途中飯田にある兄弟子のお寺で休ませて頂いたり、茅野の同安居の友人の寺でお世話になったりして、美しい長野の山を歩いた。
東雲の空が織りなす芸術に心打たれたのも長野の山中であった。夜のとばりが段々に開けて、かわたれ時から東雲になり、朝日がさす前の雲のダイナミックな移り変わりはとても私の拙い筆では表すことができない。薄墨色の雲が漆黒の空から浮かんでくるとまもなく茜色に変わり、それが一瞬黄金色に輝くのである。
時にはお地蔵様の横で寝たり、神社の社の下で寝たり、お墓の中で寝たり、思い返せばよくそんなことができたものだと我ながら感心する。碓氷峠を越えて群馬県に入ると安中は間もなくであった。そこまで高崎の友人が迎えに出てくれていた。そこでしばらくお世話になった。地図を見ると分かるが、歩いてきた道は、高崎までは地図も茶色だけの山岳地帯、高崎から目的の東松山までは緑色に塗られた平野である。
途次、おむすびを恵んで頂いたり、トマトを頂いたり、お布施を頂いたり、いろいろと恵んでいただいた。いろんな人のいろんなお世話になりながらの行脚だった。
行脚の間、二つのことだけ心掛けた。一つはアスファルト上にある虫の死骸は全て土に返すこと、鳥、ネズミ、蛇、ミミズ、蜂等等。もう一つは目に入る全てのお墓で、供養のお経をあげさせて貰うこと、これだけである。
小川町で今は亡き兄が出迎えてくれて、師匠の寺に辿り着いたのは八月の十一日であった。なんとかお盆前に帰ることができた。出迎えてくださった師匠、浅田大泉老師も奥様も、もうこの世にはいらっしゃらない。
この行脚の間、三足の地下足袋に穴があいた。有り難い体験であった。
古い荷物の片付けをしていたら、二十年以上前の日記が出てきた。その中に、名古屋の尼僧堂を送行(ソウアン)して、埼玉の得度の師匠の寺(東松山淨空院)まで歩いて帰ったときの一冊があった。その時日記を付けていたことすらも、すっかり忘れていたのだが、思いがけない一冊の発見である。
今、地図帳を手にして行脚の足跡を辿ってみたが、我ながらよくも歩いたと感心した。名古屋の千種区にある尼僧堂を出発したのは七月の二十六日、暑い夏の日であった。師匠にお盆までには帰ってこい、と徒歩で帰ることの許可を頂き、歩きはじめたのであった。電車で一息に帰るには、尼僧堂でのことはあまりに受け入れがたい体験であった。あまりに理不尽な経験を噛みしめるためにも歩いて帰ろう、と考えたのである。尼僧堂での体験を書くことはここでは控えたい。
しかし、歩き始めて程なく足にできたまめの痛みに泣いた。そして歩き始めの三日間ずぶぬれになって歩いたことが思い出される。雨だからと雨宿りをしていてはお盆までには帰れそうにない。思いきって雨の中に身をさらしたら覚悟ができた。三日間の雨の洗礼のお陰で、その後のどんな天候にも足がすくむことはなかった。
長野県に入る前に少し寄り道をして、十日間の断食修行やらのお世話になったあるお寺の奥の院に立ち寄った。それは設楽町というところの山の奥にあった。後で分かったことだが、私の嗣法の本師にあたる余語翠巌老師は、この町で生まれ育っている。この辺りは山また山で、峠を越すと一つ村落があり、村落を過ぎるとまた家の灯りの一つもない山の中を歩くようになる。
昼はあまりに暑く、主に夜の間歩いた。お陰でいろいろと面白い経験をした。山中で道に迷ったのではないかと不安になって、丁度通りがかった車に道を尋ねようとしたが、幽霊と間違われたこともあった。愛知県と長野県の県境辺りを歩いたときは、これこそ無数というのであろうというほどの蛍、蛍、蛍の光に囲まれて歩いたこともあった。
根羽村というところで飲んだ水のおいしさは今でも忘れられない。あの水を飲みにまた行ってみたいと時折に思い出すほどである。長野に入ってからは天竜川に沿って153号線、三州街道を北上した。途中飯田にある兄弟子のお寺で休ませて頂いたり、茅野の同安居の友人の寺でお世話になったりして、美しい長野の山を歩いた。
東雲の空が織りなす芸術に心打たれたのも長野の山中であった。夜のとばりが段々に開けて、かわたれ時から東雲になり、朝日がさす前の雲のダイナミックな移り変わりはとても私の拙い筆では表すことができない。薄墨色の雲が漆黒の空から浮かんでくるとまもなく茜色に変わり、それが一瞬黄金色に輝くのである。
時にはお地蔵様の横で寝たり、神社の社の下で寝たり、お墓の中で寝たり、思い返せばよくそんなことができたものだと我ながら感心する。碓氷峠を越えて群馬県に入ると安中は間もなくであった。そこまで高崎の友人が迎えに出てくれていた。そこでしばらくお世話になった。地図を見ると分かるが、歩いてきた道は、高崎までは地図も茶色だけの山岳地帯、高崎から目的の東松山までは緑色に塗られた平野である。
途次、おむすびを恵んで頂いたり、トマトを頂いたり、お布施を頂いたり、いろいろと恵んでいただいた。いろんな人のいろんなお世話になりながらの行脚だった。
行脚の間、二つのことだけ心掛けた。一つはアスファルト上にある虫の死骸は全て土に返すこと、鳥、ネズミ、蛇、ミミズ、蜂等等。もう一つは目に入る全てのお墓で、供養のお経をあげさせて貰うこと、これだけである。
小川町で今は亡き兄が出迎えてくれて、師匠の寺に辿り着いたのは八月の十一日であった。なんとかお盆前に帰ることができた。出迎えてくださった師匠、浅田大泉老師も奥様も、もうこの世にはいらっしゃらない。
この行脚の間、三足の地下足袋に穴があいた。有り難い体験であった。