8月16日(水)晴れ時々雨【追悼の茶事】
今日でようやくお盆の棚経等、一段落が付いてやはりホッとしている。先刻までただボーっとして空を見ていた。ブログの管理はすっかりさぼってしまってすみません。さて12日にはお盆に先立って、お父様の13回忌をなさった家で、追悼の茶事を開いたのでそのご紹介をさせていただきたい。
住まいの一角に現代的な感覚も取り入れて、この屋の主人が茶室を造った。名前は葵庵(キアン)である。いろいろに工夫が凝らされていて、二枚の引き戸の一隅には躙(にじ)り口を拵えてある。この戸の木の香りが大変にかぐわしい。この戸をしまい込むと玄関との境が無くなり、そこに置かれた椅子にも四、五人は座れて立礼式の席ができるようになっている。孫さん達はそこに坐った。(足が痛くなくてよかったね。)
正客席は勿論ご法事の主人公である亡きお父様である。子供や孫や奥さんに囲まれて、一服頂けるとは幸せというものだろう。思いがけないこの世からのご招待にお喜びであろうか。これも粋人の息子さんあってのことである。彼は私の弟の友人であり、高校時代からの親交がある。彼の奥さんにも、彼の妹さんにも私もお世話になったり、若い頃一緒に飲み歩いたり、お互いに人生の変遷を知っているので、今日の一服には、なかなかの味わいがあった。
プライベートなことをブログ上にはあまり書けないので、概略のみであるが、このようなご法事の趣向もなかなか素敵なこととしてご紹介させていただいた。特別にお茶室がなくても、それぞれの家の趣向で追悼の茶事の一席を設けるのも楽しいのではなかろうか。
この日のお道具は若い作家達の作品が多く使われていて、亭主の交友がお道具に反映していて、お茶席をより楽しく身近な感じにしてくれている。建水はご自作とのこと。錦で作られた仕服(茶入れ袋)は亭主の奥さんの作品である。お道具の後を追いかけるような茶道は苦手だが、自分で作ったり、友人が作ったり等、お道具と一緒に楽しむ姿勢はより深い感じがする。
私は茶人ではないので、正式な茶席のご紹介はできかねるが、特に心に残ったお道具についてご紹介しておきたい。
*薄茶茶器:神代杉沈金棗 玉井智昭作
*茶杓:夏椿 柴田克哉作 銘「涅槃」
*蓋置:覆輪欅蓋置 轆轤ー玉井智昭 金工-中安 麗(ナカヤス ウララ)
*香合:象牙白象-石井清道 一文字香合-玉井智昭
*菓子器:碧彩ぼかし黒漆菓子器 井川健作
*軸:「雲無心」ご揮毫-東大寺194世別当、華厳宗206世管長 上司海雲
待合いのお軸は、書家であった亭主のお父様の遺墨である。「平常心是道(ビョウジョウシンゼドウ、またはヘイジョウシンゼドウ)」なので、少し解説を試みたい。
これは馬祖道一(709~788)の言葉である。平生の行住坐臥が道(さとり)であり、言い換えれば、さとりは特別な心境を指すのでもなく、生活からかけ離れたものではない、という立場を表した語。
「示衆云、道不用修、但莫汚染。(中略)若欲直会其道、平常心是道。謂平常心、無造作、無是非、無取捨、無断常、無凡無聖(中略)如今行住坐臥、応機接物、尽是道」(『景徳伝燈録』巻28馬祖道一章)
〈訓読〉
「衆に示して云く、道は修を用いず、但だ汚染莫し。(中略)若し直に其の道を会せんと欲せば、平常心是道。平常心とは、造作無く、是非無く、取捨無く、断常無く、凡無く聖無きを謂う(中略)如今の行住坐臥、応機接物、尽く是れ道なり」
*応機接物(オウキセツモツ)-修行者の機根に応じて接化すること。しかし、単に機に応じて接する物、とこの場合は訳してもよいのではないかと考えるが、如何。
修行者に云われた。道(さとり)は修行を必要としない。ただ汚染さえなければよいのだ。(中略)もしその道を悟りたいとするならば、平常心是道だ。平常心とは、造作というはからい心無く、是非、取捨、断見と常見、凡聖と分ける一切の分別心も無いことを謂うのだ。(中略)只今の行住坐臥の全て、応機接物の全て、これが道である、と、馬祖は云う。
このようなとらえ方は中唐以後の禅思想の根本命題となった。馬祖は南嶽懐讓(677~744)の法嗣だが、南嶽と同じく六祖慧能(638~713)の法嗣、青原行思(?~740)の系統にも馬祖の及ぼした影響は大きい。
茶道にもこの精神は受け継がれているといえよう。そして1200年も前に馬祖さんが発した言葉が、さりげなく某家の一間にも掛かっているということが面白いことだと思う。
特別に仏教を学ばなくても、行住坐臥に心を配って、分別心無く、歩んでいけば、即、道の人生と言えるのであろう。
暑いと云っては、だらだらと怠けているような私は道から遙かに遠い。こんな時、兩の腕をきちんと張って、一服の茶を喫する姿勢をしてみたら、しゃんとした。(今してみたのです)やはり姿勢が道だと感じ入った次第である。
今日でようやくお盆の棚経等、一段落が付いてやはりホッとしている。先刻までただボーっとして空を見ていた。ブログの管理はすっかりさぼってしまってすみません。さて12日にはお盆に先立って、お父様の13回忌をなさった家で、追悼の茶事を開いたのでそのご紹介をさせていただきたい。
住まいの一角に現代的な感覚も取り入れて、この屋の主人が茶室を造った。名前は葵庵(キアン)である。いろいろに工夫が凝らされていて、二枚の引き戸の一隅には躙(にじ)り口を拵えてある。この戸の木の香りが大変にかぐわしい。この戸をしまい込むと玄関との境が無くなり、そこに置かれた椅子にも四、五人は座れて立礼式の席ができるようになっている。孫さん達はそこに坐った。(足が痛くなくてよかったね。)
正客席は勿論ご法事の主人公である亡きお父様である。子供や孫や奥さんに囲まれて、一服頂けるとは幸せというものだろう。思いがけないこの世からのご招待にお喜びであろうか。これも粋人の息子さんあってのことである。彼は私の弟の友人であり、高校時代からの親交がある。彼の奥さんにも、彼の妹さんにも私もお世話になったり、若い頃一緒に飲み歩いたり、お互いに人生の変遷を知っているので、今日の一服には、なかなかの味わいがあった。
プライベートなことをブログ上にはあまり書けないので、概略のみであるが、このようなご法事の趣向もなかなか素敵なこととしてご紹介させていただいた。特別にお茶室がなくても、それぞれの家の趣向で追悼の茶事の一席を設けるのも楽しいのではなかろうか。
この日のお道具は若い作家達の作品が多く使われていて、亭主の交友がお道具に反映していて、お茶席をより楽しく身近な感じにしてくれている。建水はご自作とのこと。錦で作られた仕服(茶入れ袋)は亭主の奥さんの作品である。お道具の後を追いかけるような茶道は苦手だが、自分で作ったり、友人が作ったり等、お道具と一緒に楽しむ姿勢はより深い感じがする。
私は茶人ではないので、正式な茶席のご紹介はできかねるが、特に心に残ったお道具についてご紹介しておきたい。
*薄茶茶器:神代杉沈金棗 玉井智昭作
*茶杓:夏椿 柴田克哉作 銘「涅槃」
*蓋置:覆輪欅蓋置 轆轤ー玉井智昭 金工-中安 麗(ナカヤス ウララ)
*香合:象牙白象-石井清道 一文字香合-玉井智昭
*菓子器:碧彩ぼかし黒漆菓子器 井川健作
*軸:「雲無心」ご揮毫-東大寺194世別当、華厳宗206世管長 上司海雲
待合いのお軸は、書家であった亭主のお父様の遺墨である。「平常心是道(ビョウジョウシンゼドウ、またはヘイジョウシンゼドウ)」なので、少し解説を試みたい。
これは馬祖道一(709~788)の言葉である。平生の行住坐臥が道(さとり)であり、言い換えれば、さとりは特別な心境を指すのでもなく、生活からかけ離れたものではない、という立場を表した語。
「示衆云、道不用修、但莫汚染。(中略)若欲直会其道、平常心是道。謂平常心、無造作、無是非、無取捨、無断常、無凡無聖(中略)如今行住坐臥、応機接物、尽是道」(『景徳伝燈録』巻28馬祖道一章)
〈訓読〉
「衆に示して云く、道は修を用いず、但だ汚染莫し。(中略)若し直に其の道を会せんと欲せば、平常心是道。平常心とは、造作無く、是非無く、取捨無く、断常無く、凡無く聖無きを謂う(中略)如今の行住坐臥、応機接物、尽く是れ道なり」
*応機接物(オウキセツモツ)-修行者の機根に応じて接化すること。しかし、単に機に応じて接する物、とこの場合は訳してもよいのではないかと考えるが、如何。
修行者に云われた。道(さとり)は修行を必要としない。ただ汚染さえなければよいのだ。(中略)もしその道を悟りたいとするならば、平常心是道だ。平常心とは、造作というはからい心無く、是非、取捨、断見と常見、凡聖と分ける一切の分別心も無いことを謂うのだ。(中略)只今の行住坐臥の全て、応機接物の全て、これが道である、と、馬祖は云う。
このようなとらえ方は中唐以後の禅思想の根本命題となった。馬祖は南嶽懐讓(677~744)の法嗣だが、南嶽と同じく六祖慧能(638~713)の法嗣、青原行思(?~740)の系統にも馬祖の及ぼした影響は大きい。
茶道にもこの精神は受け継がれているといえよう。そして1200年も前に馬祖さんが発した言葉が、さりげなく某家の一間にも掛かっているということが面白いことだと思う。
特別に仏教を学ばなくても、行住坐臥に心を配って、分別心無く、歩んでいけば、即、道の人生と言えるのであろう。
暑いと云っては、だらだらと怠けているような私は道から遙かに遠い。こんな時、兩の腕をきちんと張って、一服の茶を喫する姿勢をしてみたら、しゃんとした。(今してみたのです)やはり姿勢が道だと感じ入った次第である。