8月28日(月)曇り【冤罪:梅田事件】
昨日で梅田義光さん(82)の無罪判決が下りてから20年になるのだという。梅田さんにとっては、ようやく冤罪の晴れた日である。
昭和25年10月10日、北海道北見市営林局会計課員のO氏(当時20歳)が公金を持って失踪、別件で逮捕された男の自白からO氏の遺体が発見された。その男の供述により、梅田さんは共犯者とされてしまったのである。その男とは軍隊時代顔見知りであったに過ぎない間柄であったという。昭和27年(1952)7月に逮捕されたとき、梅田さんはまだ28歳、結婚間もない奥さんは妊娠していた。まもなく子どもが生まれるという幸せな時であった。しかしその子は産まれることなく流産、奥さんとも結局離婚となってしまった。梅田さんは身に覚えのない事件によって、平凡な幸せな生活を失ってしまったのである。
拷問にちかい取り調べによる自供と、男の証言だけで、昭和29年(1954)7月に無期懲役の判決が下された。戦争が終わってまだ間もない頃の日本の警察は、自供を吐かせるのに酷い拷問を使い、十分な検証もしない自白偏重の時代であった。多くの冤罪事件が昭和二十年代には起きている。免田事件、徳島ラジオ商殺し事件、白鳥事件等。
昭和57年(1982)釧路地裁は梅田さんの二度にわたる再審請求を受けて、ついに再審を開始した。この事件を担当した渡部保夫元裁判長は梅田さんを伴って現場検証まで行ってくれたようだ。そしてようやく梅田さんが無罪の判決を勝ちとったのが、昭和61年(1986)8月27日なのである。すでに34年の歳月が流れてしまっていた。
逮捕されたとき28歳の青年であった梅田さんは、62歳になってしまっていた。ご両親も梅田さんの無罪を知ることもなく他界してしまっていた。たとえ無罪になったとはいえ、失ってしまった日々を取り戻すことはできない。それから20年、廃品回収のお仕事などをされ、再婚もされたようだが離婚をしたり等、いろいろとご苦労なさったという。自由を取り戻しても、28歳の日々に戻り、やり直すことはできない。
「この悔しさはいつまでもなくなることはありません」と梅田さんは述懐する。
取り戻すことのできない34年間、冤罪に苦しんだ日々。
そのくやしさ、その苦しみ、無念きわまりない思い、察するにあまりある。
それでも、きちんと調べ直してくれ、無罪の判決を下してくれた渡部保夫元裁判長には感謝の手紙を出し続けているそうである。
渡部氏は大学で教鞭を取ったとき、学生達に判決を下すには慎重にせねばならないことを、この冤罪事件を取り上げて話されたそうである。「働き者の梅田さんですから、冤罪を受けなければ、農家の良い働き手となっていたことでしょう」というようなことを渡部氏は更に語っていた。2,3日前のテレビ番組で梅田さんの裁判長への手紙に関して放映されたので、梅田事件について書かせて頂いた。冤罪ほど苦しいものはあるまいと、私は同情の涙が溢れるのを禁じ得ない。私は特に冤罪については過敏に反応してしまうのである。(尼僧堂に安居していた時代に、泥棒事件が数件あり、私を追い出したいという人がいたようで、濡れ衣を着るように演出されてしまったのである。)
網走刑務所で作られるニポポという木の人形をご存じの方もいるだろうが、ニポポのどことなく悲しい表情は服役者のいろんな思いが刻まれているのだろうと、ニポポを手にしたときのあの表情を改めて思い出した。
「悔しい」と述懐した梅田さんの車椅子の後ろに「北見老人ホーム」と書かれていた。今梅田さんはそこに苦難の人生だった身をあずけていらっしゃるのだろう。
これからの梅田さんの日々が、どうか安らぎの日々でありますように。
しかし何時あなたも、身に覚えの無い事件の犯人に仕立て上げられるような目に遭うかもしれない。梅田さんの事件を対岸の火事としないで、一人の善良な人間のあまりの不運な人生に、僭越ながら申し上げますが、同情の風を送ってあげていただければ、幸甚です。