風月庵だより

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真の功徳

2006-08-27 14:42:44 | Weblog
8月27日(日)曇り凌ぎ易し【真の功徳】

昨日、一昨日と功徳について考えてみた。それは主に布施(他に与えること、金品だけではなく親切な行いも含む)の功徳について限定された功徳についてである。実は道元禅師の『正法眼藏』という書物のなかには200箇所以上も功徳という語が使われている。それは出家の功徳であり、袈裟功徳であり、坐禅の功徳、念誦の功徳、聞法の功徳、また布施の功徳等等である。

そして功徳を行じるのはむしろ出家修行者について説かれていると言えよう。在家の方も我が事として受けとめてもよいことではあるが、出家者こそ道元禅師の説かれるこれらの功徳の教えを理会し、おのずと行じていくべきことなのである。

浄化作用の必要なのは出家者自身であろう。そして念誦にしても、坐禅にしても、礼拜にしても、聞法にしても、布施にしても、修行者自身を浄化する作用があると私は受け取る。私事で恐縮であるが、自身を省みれば、悪心もあり、反省すべきことも多く、欲も多く、常に常に浄化作用を必要としている。仏教についてプロなのであるから、当然よく知識としても学ばねばならない。しかし単に知識で終わらせてはならないのはいうまでもないし、いくら学んでも氷山の一角しか今生では学べないのである。学としての学びに終始して、浄化作用を怠ると何のための出家か、ということになってしまうのである。

日々の行時(修行を常にやめないこと)が功徳を行じることになり、それを浄化作用と私は呼びたい。

さて一昨日のブログで達磨大師の「無功徳」の話を引用したが、その折りは簡単な訳のみ記した箇所について再考してみたい。

帝曰。如何是真功。答曰。淨智妙圓體自空寂。如是功不以世求。
〈訓読〉
帝曰く、「如何なるか是れ真の功。」答えて曰く、「淨智妙圓の體、自ら空寂。是の如き功は世に以て求めず」と。(淨智は妙圓にして、體、自ら空寂。の読み方の方が4字3字で切る読み方としてよいのだが、あえてこのように読んでおく。)


〈訳〉
武帝は尋ねた、「では真の功徳とはなんでしょうか。」師は答えた、「汚れのない智慧をそなえた完全な本質は空寂そのものである。これこそが功徳であり、他に何があろうか」と。

 
この體(体)とは宇宙の根元というような語で置き換えられようか。それが浄智妙円つまり汚れ無き智慧、染汚(センナ)無き完全、円(マド)かそのもの、いろいろと他の語に置き換えるのは困難だが、この世界の根元そのものは空寂(この訳語を単に実体が無いとするだけでは不適当な訳語であるが)であり、それが功徳なのである、と達磨大師は言われている、といってよいだろうか。私の理解がまだ浅いので、残念ながら現段階ではこのような説明でお許し頂きたいが、達磨さんがおっしゃりたいことは、〈この世がこのようにあること自体が功徳そのもの〉ということなのではなかろうか。

道元禅師は『正法眼藏』「菩提薩埵四摂法」の中で「法におきても物におきても、面々に布施に相応する功徳を本具せり」と書かれている。「教法にしても物でも、すべて、与えるという(いいかえれば貪らないという)功徳をすでに本質的に具えているのだ。」と言われている。この訳も十分でなく恐縮であるが、さらに言えば〈一切は布施という功徳そのものを具えている〉言い換えれば〈一切は我が物に非ず〉ともいえようか。

功徳を一概に論じること自体なかなか難しいと思うし、いろんな角度からの解釈を試みることは大事なことだが、仏教の教えの根本から解釈していくと私にはなかなか難しい。しかし達磨さんの言葉や道元禅師の言葉から噛みしめつつ学んでいきたいと願っている。

三日にわたって、拙い見方で申し訳無いのだが、功徳について考えさせて頂いた。今この身がこのようにあることに感謝しつつ、怠け者であることを反省しつつ、功徳を行じていきたいと願います。修行の功徳は浄化作用に他ならない、と受けとめています。
しかしお互いに難しく考えすぎず、社会に対してできることは何かしら徳積みをしつつ生きて参りましょう。