12月3日(日)晴れ【神通は求めるものにあらず、されど神通はある】
死んだ人間を蘇らそうとした祈祷師と信者の女性が以前北九州市にいたという。11月30日に北九州市で、ミイラ化、白骨化した三人の遺体が発見されたのはこのときの女性の部屋からである。死んだ人間を蘇らせるような神通力があると思いこみ、また信じ込む人もいるのかと驚く。それはありえないことだ。(せつない願いであることは理解できるが)
お釈迦様も、子どもを亡くしてなんとか生き返らせてほしいと泣き叫ぶ母親に、死んだ者は生き返らないし、人は死ぬ者であることをさとらせている話が今に伝わっている。
かつて修行僧の中にも修行すれば神通力が得られると思い違いをしていた者もいたのではなかろうか。馬祖道一という中国唐の時代の禅師が「平常心是道」といい、日々の生活が大事であることを説かれたが、この頃にも生活とかけ離れた神秘的なことを追い求める修行者たちがいたのかもしれない。
お釈迦様の十大弟子の一人に、目連尊者という弟子がいらっしゃった。この方は神通第一といわれ、あの世を見通すことができたといわれている。しかしお釈迦様はそのような神通力を使うことを戒められたという。仏教は神通力を得る教えではなく、この命をどう生きるか、という教えなのである。特に禅の学びはそこにある。内山興正老師という方は「自分が自分を自分する」とも表現された。
一方、生来霊能のある方も、この世にはいらっしゃるようだ。私が出会った方に矢追日聖やおいにっしょう法主様という霊能の有る方がいらっしゃった。この方はお祖母さまも、お母さまも霊能の強い方であったそうである。この方の一生は人々への奉仕であった。奈良の一隅に老人ホームや身障者の施設を作られたり、奈良市から信頼されて病院も造られている。戦後は戦災孤児たちの世話をなさったり等、弱者の救済に一生を尽くされた。(勿論この事実を神通と表現することは可能である)
そして霊界と交流されて荒ぶる霊を静めたり(この世の平和のために)、聖徳太子様や霊界人とも交流なさっていた。(私が心の声に「この日本は聖徳太子のテリトリーです、と言われたのですが、それはどういう意味でしょうか」と訊ねたとき、奥様が「法主さんは聖徳太子さんのお友だちでっせ。よくお会いするようですよ」と法主様の傍らで言われた)このような方もいらっしゃる。私は数回お会いしただけであるが、ご一緒に大倭紫陽花村にお住まいの方々は、法主様が人知を越えた方であったことをよくご存じである。
また私が住職をしていたお寺と縁のある先達の方の中に、霊能の強い方がいらっしゃってやはり人助けをなさっている。先代の方の中には、ある俳優さんの娘さんが誘拐されたとき、犯人の居場所を特定して助け出したということもあったそうである。
生来神通のある方々や、行者さんの修行をして不思議の力を得たという方々が、この世に存在していることは否定できない。まことの神通のある方々は私利私欲ではその力を使うことはない。人々への奉仕に神通の力を使う方がまことの霊能者である。
禅を学ぶ者が神秘的な力、神通力といおうか、を得ようということは過ちである。しかし人知を越えたこともあるのだ、ということを、私は受け入れている。私は受け入れざるを得ない。これは論議の外である。ただまことの霊能は決して人々を迷わすことでも、お金儲けの手段とするようなことではない、ということを明記しておきたい。
死んだ人間を生き返らせるようなことでは決してないのである。
*文中、神通と霊能をごちゃごちゃに使っているが、それぞれの定義をしておきたい。
*神通力:一般的には何事でもなし得る霊妙な力。聖者の具備する六つの不思議な力、六神通。天眼通・天耳通・他心通・宿住通・漏尽通・神境通
*霊能:霊的能力といってよいだろうか。霊能という語は『広辞苑』にも『大漢和』にも無い。霊能者は『広辞苑』にはある。三省堂の『新明解』にもない。(明解さんは独特なのであるかと思ったが)
*霊能者:日常の世界と神霊の世界とを結びつける資質を持った宗教的職能者。預言者。シャーマン・霊媒など。(『広辞苑』)
死んだ人間を蘇らそうとした祈祷師と信者の女性が以前北九州市にいたという。11月30日に北九州市で、ミイラ化、白骨化した三人の遺体が発見されたのはこのときの女性の部屋からである。死んだ人間を蘇らせるような神通力があると思いこみ、また信じ込む人もいるのかと驚く。それはありえないことだ。(せつない願いであることは理解できるが)
お釈迦様も、子どもを亡くしてなんとか生き返らせてほしいと泣き叫ぶ母親に、死んだ者は生き返らないし、人は死ぬ者であることをさとらせている話が今に伝わっている。
かつて修行僧の中にも修行すれば神通力が得られると思い違いをしていた者もいたのではなかろうか。馬祖道一という中国唐の時代の禅師が「平常心是道」といい、日々の生活が大事であることを説かれたが、この頃にも生活とかけ離れた神秘的なことを追い求める修行者たちがいたのかもしれない。
お釈迦様の十大弟子の一人に、目連尊者という弟子がいらっしゃった。この方は神通第一といわれ、あの世を見通すことができたといわれている。しかしお釈迦様はそのような神通力を使うことを戒められたという。仏教は神通力を得る教えではなく、この命をどう生きるか、という教えなのである。特に禅の学びはそこにある。内山興正老師という方は「自分が自分を自分する」とも表現された。
一方、生来霊能のある方も、この世にはいらっしゃるようだ。私が出会った方に矢追日聖やおいにっしょう法主様という霊能の有る方がいらっしゃった。この方はお祖母さまも、お母さまも霊能の強い方であったそうである。この方の一生は人々への奉仕であった。奈良の一隅に老人ホームや身障者の施設を作られたり、奈良市から信頼されて病院も造られている。戦後は戦災孤児たちの世話をなさったり等、弱者の救済に一生を尽くされた。(勿論この事実を神通と表現することは可能である)
そして霊界と交流されて荒ぶる霊を静めたり(この世の平和のために)、聖徳太子様や霊界人とも交流なさっていた。(私が心の声に「この日本は聖徳太子のテリトリーです、と言われたのですが、それはどういう意味でしょうか」と訊ねたとき、奥様が「法主さんは聖徳太子さんのお友だちでっせ。よくお会いするようですよ」と法主様の傍らで言われた)このような方もいらっしゃる。私は数回お会いしただけであるが、ご一緒に大倭紫陽花村にお住まいの方々は、法主様が人知を越えた方であったことをよくご存じである。
また私が住職をしていたお寺と縁のある先達の方の中に、霊能の強い方がいらっしゃってやはり人助けをなさっている。先代の方の中には、ある俳優さんの娘さんが誘拐されたとき、犯人の居場所を特定して助け出したということもあったそうである。
生来神通のある方々や、行者さんの修行をして不思議の力を得たという方々が、この世に存在していることは否定できない。まことの神通のある方々は私利私欲ではその力を使うことはない。人々への奉仕に神通の力を使う方がまことの霊能者である。
禅を学ぶ者が神秘的な力、神通力といおうか、を得ようということは過ちである。しかし人知を越えたこともあるのだ、ということを、私は受け入れている。私は受け入れざるを得ない。これは論議の外である。ただまことの霊能は決して人々を迷わすことでも、お金儲けの手段とするようなことではない、ということを明記しておきたい。
死んだ人間を生き返らせるようなことでは決してないのである。
*文中、神通と霊能をごちゃごちゃに使っているが、それぞれの定義をしておきたい。
*神通力:一般的には何事でもなし得る霊妙な力。聖者の具備する六つの不思議な力、六神通。天眼通・天耳通・他心通・宿住通・漏尽通・神境通
*霊能:霊的能力といってよいだろうか。霊能という語は『広辞苑』にも『大漢和』にも無い。霊能者は『広辞苑』にはある。三省堂の『新明解』にもない。(明解さんは独特なのであるかと思ったが)
*霊能者:日常の世界と神霊の世界とを結びつける資質を持った宗教的職能者。預言者。シャーマン・霊媒など。(『広辞苑』)