風月庵だより

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昔の先生

2006-12-16 22:54:41 | Weblog
10月10日(火)晴れ【昔の先生】
(迷惑なトラックバックがこのログに多いので削除しやすいように位置を移動しました。古いログです。アルファベットを入れるといけないのかと考え、アルファベットを全て○○に変えました)

また先日の同窓会の話になるが、隣の宴席に座った○○ークンが言ったこと。「俺が中学を卒業して、東京に就職するとき、家じゃみんな忙しくて誰も付いてきてくれられなくて、あの○○先生が就職先まで送ってきてくれたんだよ」と上席に座っている先生を指した。「先生はもう忘れちゃっているけど」「しっかりやれよって」「今になって、有り難かったって思うさ」と言った。

昭和34年に作られた山本薩夫監督の『人間の壁』に描かれた教師たちも、貧しくて苦労している子供たちの味方のような先生たちだった。映画だけでなく実際にもそんな先生たちが多かったであろう。

今でも生徒思いの先生がいないとは決して言えない。しかし北海道滝川市の教育委員会のようなケースを耳にすると、はなはだ心配になってしまう。教育委員長は必ず教師の経験者であり、やがて校長になるケースが多い。しかし遂に、自殺した少女にいじめがあったことを認めたという。当然のことであろう。少女が自殺を決行してから一年以上もたって、やっとそのような事実を認めるという姿勢は、理解に苦しむばかりである。

少女の遺書も一部が公開されたので、クラス・メートから仲間はずれにされたことが原因の自殺であることが明らかにわかる。このような遺書を目にしていた教育委員達がなぜ自殺と受けとめなかったのか、国語の読解力がなくて理解できなかったのであろうか。

このような大人達の自己保身や事なかれ主義が、友を死に追いやるような子供たちを益々増やしてしまうのだということを認識するべきであろう。子供たちには、一人が「キモイ」というと連鎖的にみんなが「キモイ」という一種の集団ボケ症状がある。その時「キモイ」と言うグループに入らなければ、自分が言われてしまう方にまわされてしまうのである。そういうこともあるだろう。

昔の先生が全て正しかったとは言えないだろうが、もう少し生徒たちを善導することができたのではあるまいか。先生の権威ももっとあったのは確かである。(いじめについて私はしつこく書きたいのであるが、この位にしておこう。昔の先生と今の先生の比較をしたところでなにも始まらないだろうから)

世の中は北朝鮮の核実験について論争をしているし、後から後から事件が噴き出している。今テレビで論じていることだけが全てではないのであって、忘れてはならない、風化させてはならない事件をそれぞれが見据えていきたい。

学校のみんなへ
 この手紙を読んでいるということは私が死んだと言うことでしょう
 私は、この学校や生とのことがとてもいやになりました。それは、3年生のころからです。なぜか私の周りにだけ人がいないんです。5年生になって人から「キモイ」と言われてとてもつらくなりました。
 6年生になって私がチクリだったのか差べつされるようになりました。それがだんだんエスカレートしました。一時はおさまったのですが、周りの人が私をさけているような冷たいような気がしました。何度か自殺も考えました。
 でもこわくてできませんでした。
 でも今私はけっしんしました。(後略)
6年生のみんなへ
 みんなは私のことがきらいでしたか? きもちわるかったですか? 私は、みんなに冷たくされているような気がしました。それは、とても悲しくて苦しくて、たえられませんでした。なので私は自殺を考えました。(後略)
※一部抜粋、仮名遣いなどは原文のまま

とにかく教育にたずさわる方々は大変だろうが、そのテリトリーには他の者が入れないのだから、責任を持ってたずさわって頂きたいとお願いをしたい。

"故郷の話をしよう"

2006-12-16 19:32:15 | Weblog
10月2日(月)曇り【"故郷の話をしよう"】
(迷惑トラックバックが多く削除作業のため位置を移動しました。以前の記事です。名前は全て○に変えました。)

皆様お久しぶりです。このところ出かけることが多く、書くことができませんでした。二年前から母に頼まれていたことがあり、それを叶えてあげる用事が一つありました。言うなれば冥土のみやげのようなもので、生きているうちに古い友人に会いたいという母の願いのためにちょっと出かけておりました。

仕事のきりがつかないこともあり、二年も待って貰っていたのですが、母が生きていてくれてよかった、と思います。もし約束を果たさないで、最終の旅行に出かけられてしまったなら、きっと私は約束を果たさなかったことを悔やんだでしょう。

御陰様で無事その約束は果たせました。しかし、また新たなる願いを母は持ったようです。キリがないようです。これはさりげなく聞かせてください。

それから私は故郷の中学校の同窓会に行って来ました。私は中学校から東京に出てきたので、故郷の小学校だけのつき合いですが、メンバーに入れてもらえています。仲良しの友だちのお陰です。

誰とでも仲良く遊んだ小学校時代ですけど、特に仲良しは、お寺の○チャンや、美容院の娘で今は美容院を継いでいる○チャンや、最近まで売れっ子の芸者さんだった○チャンやら、いろいろです。

私はご存じのように女性ですが、○○クン、と愛称で呼ばれていて、今でもそう呼ばれます。他の人は女の子は「チャン」、男の子は「クン」づけで、小学校時代の呼び方のまま。還暦にもなろうというおばさん、おじさん達が、お互いに○○チャン、▲▲チャン、□□クンと呼び合っているのですから、楽しいとしか言いようがありません。(いやおかしいでしょうか。)

先生方も三人ご出席下さいました。三人とも、もう八〇歳を過ぎています。そのうちのお一人の先生にはよく怒られて立たされた話などに花が咲きました。ある人は図書館に立たされたまま、先生も忘れて帰ってしまった話やら、今のピーティーエーの方々には想像もできないような話しでしょう。しかも女の子の方がよく立たされていたのですから。先生は本当に熱血先生でした。

「先生に怒ってもらって、本当によかったと思っているよ」と皆言います。今の子供達には想像もできないことでしょう。「でもあんまりあたしが言うことを聞かないんで、先生が親に言いに来たんさ、でも家の母ちゃんは、うちの子はいい子ですよ、って笑っているんさ。陰からそれを聞いてて、あたしはいい子になろうと反省したんさ」と、一人の友人は言います。そんなことがあったのかと、私は聞いていて感心した。

こんなこと一つとっても、私たちが育った時代は幸せな時代だったのではなかろうか。小学校の校歌を歌ったが、歌に詠まれる「仰げば高い谷川岳」と「流れも清い利根川」の自然に囲まれて、同窓会に集まったような友人達と小学校時代を過ごせたことは、一生の宝と言えるでしょう。

はや泉下に先に逝ってしまった友も何人もいます。また母親が残っているのは、極僅かです。「みんな生きている間にまた会おうね」と次回の約束をして故郷を後にしました。次回に私が生きているかは分かりません。また友の面々にも分からない話です。

谷川岳の麓、「旅館たにがわ」という小学校の友が営むホテルでの同窓会でした。
陶淵明が「雲無心以出岫(雲は無心にしてもって岫を出づ)」と詠んだような、山間の静かな宿での故郷の同窓会に行ってまいりました。(「*雲は嶺頭に在って閑不徹、水は澗下を流れて太忙生。」という言葉もありますが、自然に恵まれた、もてなしの行き届いた素晴らしいお宿です。)

また少しずつ当庵のブログを管理しますが、留守の間もご訪問下さり有り難うございました。

*雲在嶺頭不徹。水流澗下太忙生。:おそらく大愚守芝(不詳、汾陽善昭〈947~1024〉の法嗣)の言葉。大自然の姿に、人間の分別・比較・評価の入り込めない世界の消息を示している。