12月15日(金)晴れ【智慧の功徳】
この世を生きていく間に、多くのことを見聞きし、多くのことを体験もする。改めて言うまでもないが、この見聞・体験の主体は自分自身である。私も還暦を迎えるまで生かされてきて、少なからず見聞きし、体験もしてきた。
体験したことにおいては、失敗ばかりであったという印象が強い。なぜそうであったかと考えてみると、自利や我を先にした行動において、自ら「失敗」という判定を下すことになる。一方、利他や心を大事にした行動に対しては、「安心あんじん」がある。失敗の反対の語は成功のようであるが、この場合は心の持ちようの安定、安心ということになる。
とにかく反省することの多い人生である。恥ずかしいほどの人生であるが、過去に戻ってやり直すことはできない。しかし今からならやり直すことはできる。それが限定されたものは一切無いという、固定的に不動なものは一切無いという「諸行無常しょぎょうむじょう」の教えであり、「一切皆空いっさいかいくう」の教えと受けとめる。
しかしこれから先の人生はそれほど長い時間は残されていない。「やり直す」にしても何か効果的でなくては、と考えるに、『大智度論の物語』を読んでいて、次の一文に出会った。
小人眼見求清浄 如是無智無実道
諸結煩悩満心中 云何眼見得浄道
若有眼見得清浄 何用智慧功徳実
智慧功徳乃為浄 眼見求浄無是事 (『大智度論』巻3『大正新脩大蔵経』25巻82頁b22)
小人は眼まのあたり見て清浄を求む。 是くの如きは智無く実の道無し。
諸もろの煩悩を結んで心中に満つ。 云何いかんが眼のあたり見て浄道を得ん。
若もし眼のあたり見て清浄を得ること有らば、 何ぞ智慧の功徳の実を用いん。
智慧の功徳、乃ち浄と為す。 眼のあたり見て浄を求むること是の事無きことなり。
小人は目の前にあることを見て、清浄を求める。このようなことは智も無く実の道も無い。
多くの煩悩が心に満ちたままで、どうして目に見るだけで清浄の道を得られるだろうか。もし目に見るだけで清浄の道を得られるのならば、智慧の功徳による宝を用いる必要があるだろうか。智慧による功徳こそ、それが清浄なのである。まのあたり見ることだけで清浄を求めることなどあり得ないことである。(『大智度論の物語』の訳をほとんど参照させて頂き、一部言葉を変えた)
この箇所は清浄に生きた僧侶を見ただけでは清浄にはなれないよ、清浄を得るのは智慧の功徳による、ということを言っている件である。それを私は少し観点を変えて、智慧の眼で、「見聞し、体験すること」を見聞し、体験することが、自身に安心をもたらしてくれるであろう、と読みかえてみた。そこで智慧の眼とは何か、ということになるが、その一つは釈尊の教えと言えるだろう。
釈尊の教えのみならず、いろいろと人生を導いてくれる灯りはある。イエス様の教え、多くの祖師の教え、宇宙の真理に目覚める眼が智慧の眼と言えよう。その眼で見聞、体験するということなのだから、実はだいそれたことを私は言っているかもしれない。
少し身近に引き寄せて智慧を解釈させてもらって言えば、他人も自分も大切に、我を張らず、もう少し人のお役に立って、もう少し真剣に学んで、この人生に感謝して、歩んでいきたいと願う。
昨日は還暦を、尊敬する師や友人に祝って頂いて勿体ない思いがした。終戦の翌年、団塊の世代といわれる人々の前年に生まれた人がこのブログを読んで下さっていたら、共に祝いましょう。新たなる一歩を歩むことを許される年まで生きたことを(勿論全ての人に新たなる一歩を歩み直すことは許されてあるのだが、まあ、今はたまたま還暦に因んで言っているとお受け取り下さい。)そして智慧の眼で生きていきましょう。という本人は、いつも反省することしきりの日々なのですが。賢者の真似をして生きれば、いつか賢者になれる。賢者をあがめ奉って見ているだけでは駄目ですからね。
*『大智度論の物語』三枝充悳著 第三文明社 昭和48年10月初版
*智慧とは通俗的にはかしこさも意味するが、『大智度論』で言うところの智慧は、悟りを完成する働き、真理を見極める認識力(『仏教語大辞典』)を意味しているだろう。
この世を生きていく間に、多くのことを見聞きし、多くのことを体験もする。改めて言うまでもないが、この見聞・体験の主体は自分自身である。私も還暦を迎えるまで生かされてきて、少なからず見聞きし、体験もしてきた。
体験したことにおいては、失敗ばかりであったという印象が強い。なぜそうであったかと考えてみると、自利や我を先にした行動において、自ら「失敗」という判定を下すことになる。一方、利他や心を大事にした行動に対しては、「安心あんじん」がある。失敗の反対の語は成功のようであるが、この場合は心の持ちようの安定、安心ということになる。
とにかく反省することの多い人生である。恥ずかしいほどの人生であるが、過去に戻ってやり直すことはできない。しかし今からならやり直すことはできる。それが限定されたものは一切無いという、固定的に不動なものは一切無いという「諸行無常しょぎょうむじょう」の教えであり、「一切皆空いっさいかいくう」の教えと受けとめる。
しかしこれから先の人生はそれほど長い時間は残されていない。「やり直す」にしても何か効果的でなくては、と考えるに、『大智度論の物語』を読んでいて、次の一文に出会った。
小人眼見求清浄 如是無智無実道
諸結煩悩満心中 云何眼見得浄道
若有眼見得清浄 何用智慧功徳実
智慧功徳乃為浄 眼見求浄無是事 (『大智度論』巻3『大正新脩大蔵経』25巻82頁b22)
小人は眼まのあたり見て清浄を求む。 是くの如きは智無く実の道無し。
諸もろの煩悩を結んで心中に満つ。 云何いかんが眼のあたり見て浄道を得ん。
若もし眼のあたり見て清浄を得ること有らば、 何ぞ智慧の功徳の実を用いん。
智慧の功徳、乃ち浄と為す。 眼のあたり見て浄を求むること是の事無きことなり。
小人は目の前にあることを見て、清浄を求める。このようなことは智も無く実の道も無い。
多くの煩悩が心に満ちたままで、どうして目に見るだけで清浄の道を得られるだろうか。もし目に見るだけで清浄の道を得られるのならば、智慧の功徳による宝を用いる必要があるだろうか。智慧による功徳こそ、それが清浄なのである。まのあたり見ることだけで清浄を求めることなどあり得ないことである。(『大智度論の物語』の訳をほとんど参照させて頂き、一部言葉を変えた)
この箇所は清浄に生きた僧侶を見ただけでは清浄にはなれないよ、清浄を得るのは智慧の功徳による、ということを言っている件である。それを私は少し観点を変えて、智慧の眼で、「見聞し、体験すること」を見聞し、体験することが、自身に安心をもたらしてくれるであろう、と読みかえてみた。そこで智慧の眼とは何か、ということになるが、その一つは釈尊の教えと言えるだろう。
釈尊の教えのみならず、いろいろと人生を導いてくれる灯りはある。イエス様の教え、多くの祖師の教え、宇宙の真理に目覚める眼が智慧の眼と言えよう。その眼で見聞、体験するということなのだから、実はだいそれたことを私は言っているかもしれない。
少し身近に引き寄せて智慧を解釈させてもらって言えば、他人も自分も大切に、我を張らず、もう少し人のお役に立って、もう少し真剣に学んで、この人生に感謝して、歩んでいきたいと願う。
昨日は還暦を、尊敬する師や友人に祝って頂いて勿体ない思いがした。終戦の翌年、団塊の世代といわれる人々の前年に生まれた人がこのブログを読んで下さっていたら、共に祝いましょう。新たなる一歩を歩むことを許される年まで生きたことを(勿論全ての人に新たなる一歩を歩み直すことは許されてあるのだが、まあ、今はたまたま還暦に因んで言っているとお受け取り下さい。)そして智慧の眼で生きていきましょう。という本人は、いつも反省することしきりの日々なのですが。賢者の真似をして生きれば、いつか賢者になれる。賢者をあがめ奉って見ているだけでは駄目ですからね。
*『大智度論の物語』三枝充悳著 第三文明社 昭和48年10月初版
*智慧とは通俗的にはかしこさも意味するが、『大智度論』で言うところの智慧は、悟りを完成する働き、真理を見極める認識力(『仏教語大辞典』)を意味しているだろう。