3月8日(木)晴れ【平常心是道について、補足】
3日のログで平常心是道について少し書いたが、その考えはまったく不十分であった。馬祖の平常心是道について学んでみて、南泉の平常心是道についても参究の角度が一面的であったと思うので、補足しておきたい。また「不知は是れ無記」の訳も考えてみたので、書き添えておきたい。(自身がなかなか納得がいかなかった言葉です)
〈訓読〉
異日南泉に問う。如何なるか是道。南泉曰く、平常心是道。師曰く、還はた趣向すべきや否や。南泉曰く。向かわんと擬すれば即ち乖そむく。師曰く。擬せざる時、如何いかんが是れ道なるを知るや。南泉曰く。道は知と不知とに属さず。知は是れ妄覚、不知は是れ無記。若し真に不疑の道に達せば、猶お太虚は廓然として虚豁なるがごとし。豈に是非を強しいるべきや。師、言下に理を悟る。
〈試訳〉
(趙州は)後日南泉に尋ねた。「道とはなんでしょうか」。南泉は答えた。「平常心が道である」。師(趙州)は尋ねた。「目的を定めたほうがよいでしょうか」。南泉は答えた。「目的を定めるならば途端にはずれてしまう」。師は尋ねた。「目的を定めないで、どうして道であることを知ることができるでしょうか」。南泉は答えた。「道は知とか不知とかに属さない。知とは誤った分別であり、知らないということは意識を働かせないことでボンヤリとしていることだ。もし、本当に目的を定めない道に到達したならば、ちょうど大空のように、からりとし、ひろびろとしているようだ。どうして是とか非とか敢えていうことができようか。師はその言葉でただちに悟った。
平常心は道であり、道は、分別しない、価値判断に属しないことを、「知は是れ妄覚」と謂われている。「不知は是れ無記」とは無記はどうも訳すのに手こずったのだが、ここでは妄覚と対しているので、やはりうけがわれないことを意味しているのであるから、意識を働かせないこと、ボーッとしている状態と訳しておきたい。(因みに石井修道先生は「意識の無いこと」と訳されていらっしゃる)
道元禅師は「不染汚といふは平常心是道なり、吾常於此切(吾常に此に於いて切)なり」と「神通」巻で謂われている。これはよい、あれは悪いなどと価値判断をしない、是非を論じないこと、これを平常心是道というのだといわれていると解釈してよいだろうか。当然であるが、「坐禅をして悟る」などということは誤った考えということである。そうであるから、ひたすらなる修行ということになるのであろう。
また馬祖は示衆として平常心是道について南泉よりも詳しく語られている。南泉との違いをこの言葉から読み解くことは、私には現段階で難しいので、むしろ馬祖の丁寧な示衆からもう少し平常心の理解を付け加えたいが、それは後日をお待ち頂きたい。
「平常」とは「自性寂靜」をいい、「心」は「一心」を意味している。単に修行する日々の心としたのでは、全く意味が充分ではなかったので、これだけ現段階では補足しておきたい。
*後日、馬祖の「平常心是道」を参究しますので、気長にお待ち下さい。しかし禅語は一筋縄では解釈ができません。もう少し易しく、分かりやすいとよいのですが、私にはかなり難しいです。
3日のログで平常心是道について少し書いたが、その考えはまったく不十分であった。馬祖の平常心是道について学んでみて、南泉の平常心是道についても参究の角度が一面的であったと思うので、補足しておきたい。また「不知は是れ無記」の訳も考えてみたので、書き添えておきたい。(自身がなかなか納得がいかなかった言葉です)
〈訓読〉
異日南泉に問う。如何なるか是道。南泉曰く、平常心是道。師曰く、還はた趣向すべきや否や。南泉曰く。向かわんと擬すれば即ち乖そむく。師曰く。擬せざる時、如何いかんが是れ道なるを知るや。南泉曰く。道は知と不知とに属さず。知は是れ妄覚、不知は是れ無記。若し真に不疑の道に達せば、猶お太虚は廓然として虚豁なるがごとし。豈に是非を強しいるべきや。師、言下に理を悟る。
〈試訳〉
(趙州は)後日南泉に尋ねた。「道とはなんでしょうか」。南泉は答えた。「平常心が道である」。師(趙州)は尋ねた。「目的を定めたほうがよいでしょうか」。南泉は答えた。「目的を定めるならば途端にはずれてしまう」。師は尋ねた。「目的を定めないで、どうして道であることを知ることができるでしょうか」。南泉は答えた。「道は知とか不知とかに属さない。知とは誤った分別であり、知らないということは意識を働かせないことでボンヤリとしていることだ。もし、本当に目的を定めない道に到達したならば、ちょうど大空のように、からりとし、ひろびろとしているようだ。どうして是とか非とか敢えていうことができようか。師はその言葉でただちに悟った。
平常心は道であり、道は、分別しない、価値判断に属しないことを、「知は是れ妄覚」と謂われている。「不知は是れ無記」とは無記はどうも訳すのに手こずったのだが、ここでは妄覚と対しているので、やはりうけがわれないことを意味しているのであるから、意識を働かせないこと、ボーッとしている状態と訳しておきたい。(因みに石井修道先生は「意識の無いこと」と訳されていらっしゃる)
道元禅師は「不染汚といふは平常心是道なり、吾常於此切(吾常に此に於いて切)なり」と「神通」巻で謂われている。これはよい、あれは悪いなどと価値判断をしない、是非を論じないこと、これを平常心是道というのだといわれていると解釈してよいだろうか。当然であるが、「坐禅をして悟る」などということは誤った考えということである。そうであるから、ひたすらなる修行ということになるのであろう。
また馬祖は示衆として平常心是道について南泉よりも詳しく語られている。南泉との違いをこの言葉から読み解くことは、私には現段階で難しいので、むしろ馬祖の丁寧な示衆からもう少し平常心の理解を付け加えたいが、それは後日をお待ち頂きたい。
「平常」とは「自性寂靜」をいい、「心」は「一心」を意味している。単に修行する日々の心としたのでは、全く意味が充分ではなかったので、これだけ現段階では補足しておきたい。
*後日、馬祖の「平常心是道」を参究しますので、気長にお待ち下さい。しかし禅語は一筋縄では解釈ができません。もう少し易しく、分かりやすいとよいのですが、私にはかなり難しいです。