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平常心について

2007-03-31 22:31:51 | Weblog
3月31日(土)曇り【平常心について】

この頃は高校野球春の選抜大会が行われているが、ある時アナウンサーが「平常心で投げれば大丈夫でしょう」というようなことを言っていた。この場合の平常心は落ち着いたいつもの心の状態というような意味であろう。一般的にはそのように使われているが、禅の世界の平常心の意味は異なる。馬祖道一ばそどういつ(709~788)の「平常心是道」について『天聖広燈録』巻八に収録されている馬祖章の示衆から学んでみたい。
〈原文〉
師示衆云。道不用修。但莫汚染。何爲汚染。但有生死心。造作趣向。皆是染汚。
〈訓読〉 
師、衆に示して云く、道は修を用いず。但だ汚染おせんすること莫なかれ。何をか汚染と爲す。但だ生死しょうじの心有りて、造作ぞうさし、趣向しゅこうす。皆な是れ染汚なり。
〈試訳〉
馬祖は大衆に話された。「道(さとり)は修行をする必要はない。ただ汚染(はからい)をしてはならない。何を汚染かと言えば、生死に迷う心が有って、何かをなそうとしたり、意図を持って何かを為そうとする、これが汚染である。」

〈原文〉
若欲直會其道。平常心是道。何謂平常心。無造作・無是非・無取捨。無斷常・無凡聖。
〈訓読〉
し直じきに其の道を會せんと欲せば、平常心是道なり。何をか平常心と謂わん。造作無く、是非無く、取捨無く、斷常無く、凡聖ぼんしょう無し。
〈試訳〉
もし本当にその道(さとり)を会得したいのならば、平常心が道である。何を平常心というかと言えば、何かを為そうというのでも無く、是非も無く、取捨も無く、断見も常見も無く、凡も聖も無いことだ。断見:人は一度死ねば断滅して再度生まれかわることがないとする断無にとらわれた考え。常見:世界は常住不滅であり、人は死んでも我(アートマン)が永久不滅であると執着する誤った考え。
平常心は一切のはからいを越えた、全てをそなえた心なので、修行をする必要さえない、と馬祖は言われるのだが、ここをとらえ間違って後世の、というか、現代の僧侶がとらえ間違いをしてしまうと、「いいんだよ、そのままで」というような自分に都合のよい解釈をしてしまうおそれがあると思う。
〈原文〉
故經云。非凡夫行・非聖賢行。是菩薩行。只如今行住坐臥。應機接物盡是道。今(他本は道)即是法界。乃至河沙妙用。不出法界。若不然者。云何言心地法門。云何言無盡燈。一切法皆是心法。一切名皆是心名。萬法皆從心生。心爲萬法之根本。
〈訓読〉
故に經に云く、凡夫行ぼんぷぎょうに非ず、聖賢行しょうけんぎょうに非ざる、是れ菩薩行ぼさつぎょうなり。只だ如今にょこんの行住坐臥ぎょうじゅうざが、應機接物おうきせつぶつ、盡ことごとく是れ道なり。今(他本は道)は即ち是れ法界ほっかい。乃至ないし河沙がしゃの妙用みょうゆうにして法界を出でず。若し然しからざれば、云何いかんが心地法門しんちほうもんと言わん。云何が無盡燈むじんとうと言わん。一切法は皆是れ心法なり。一切名は皆是れ心名なり。萬法ばんぽうは皆心從り生ず。心は萬法の根本なり。
〈試訳〉
経(『維摩経』)にいうように「凡夫の行いでも無く、聖者賢者の行いでも無い、これが菩薩の生き方である」と。まさに只今の行住坐臥、応機接物(修行者の機根に応じて教え導くこと)が、全て道なのである。今(他本の「道」のほうがここはよいのでは))というのは法界である。またはかりしれない不思議なるはたらきである。どこまでも法界のはたらきである。もしそうでなければ、どうして心地法門といえようか、どうして無尽灯といえようか。一切法(一切の存在)は心によるのである。一切名は皆心の別名である。万法は皆心より生じている。心こそ万法の根本である。    
ここの「経」の引用箇所:『維摩経』巻中「文殊師利問疾品第五」にある。菩薩行とは何かを説いた箇所。「離此二法是菩薩行。在於生死 不爲汚行。住於涅槃不永滅度。是菩薩行。 非凡夫行非賢聖行。是菩薩行。非垢行非 淨行。是菩薩行」*無尽灯:心地の霊光の常に明かであること。又は真実の仏法の精神が尽きることなく伝承されていくこと。*心地法門:心こそ一切の根源とする仏法の教え。

〈原文〉
故經云。識心達本源。故號爲沙門。名等・義等。一切法皆等。純一無雜。若於教門中得隨時自在。建立法界。盡是法界。若立眞如。盡是眞如。若立理。一切法盡是理。若立事。一切法盡是變。
〈訓読〉
故に經に云く、識心は本源に達す。故に號して沙門と爲す。名等・義等、一切諸法、皆な等にして純一無雜じゅんいつむざつなり。若し教門中に於いて時に隨い自在にして、法界を建立するを得ば、盡く是れ法界。若し眞如を立つれば、盡く是れ眞如。若し理を立つれば、一切法盡く是れ理。若し事を立つれば、一切法盡く是れ變(他本は事)。
〈試訳〉
経(『四十二章経』)にあるように「識心(識として働く心)の本源に達す。故に号して沙門と為す」と。名(万有の心の領域、精神的はたらき、能詮)も義(言い表されるもの。所詮)も等であり、一切諸法(一切の存在)は等であり、純粋でありまざりけがないのである。もし仏の教えに於いて、思うままに、ある時は、法界(事物の根元)としてとらえるならば、一切が法界となる。もしある時は真如(万有の根元)としてとらえるならば、一切が真如となる。もしある時は理(現象を現象たらしめているもの)としてとらえるならば、一切が理となる。もしある時は事(現象)としてとらえるならば、一切が変(変化して現れたもの。他本の「事」のほうがよいのでは)となるのである。
*等:一切諸法の自性空寂であること。自性も空寂も全ての存在の本質。その通りに了知することが平等に住するということ。*『四十二章経』「佛言。辭親出家。識心達本。解無爲法。名曰沙門。常行二百五十戒。」
訳のおかしいと思われる箇所についてはご指導願います。
(続く)