風月庵だより

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真っ当に生きる

2007-06-09 18:00:30 | Weblog
6月9日(土)曇り一時雨【真っ当に生きる】

通勤の電車で思う。満員電車の中で思う。それぞれにいろいろな人生を背負って、朝の電車に乗っているのだろう、と思う。仕事が苛酷な人もいるだろう。家に問題を抱えている人もいるだろう。恋愛中の楽しい人もいるだろう。仕事が楽しい人もいるだろう。その反対の人もいるだろう。それぞれの人生を背負って、同じ電車に乗り合っている。

私もその中の一人である。この年になるまでなんとか生きてこられた。このまま人生を全うするだけだ。そして真っ当に生きる、ということを思った。教えというものは仏教も含め、人間が真っ当に生きる助けにならなくては、と思った。(私自身はあまり真っ当でないからこそ、仏教を学んでいる)

そこで、今日は、龐蘊居士ほううんこじ(?~808)の言葉に学んでみたい。
【原文】
神通并妙用、運水及搬柴。(『景徳伝燈録』八巻)
【訓読】
神通じんつうならびに妙用みょうゆう、水を運び及び柴まきを搬はこぶ。

これは石頭希遷せきとうきせん(700~790)の所に参じた折、石頭から「日用の事作麼生いかん(毎日の生き方はどうですか)」と質問されて、その答えである。

神通と素晴らしい働きと言いますなら、水を運んだり、柴を運んだりすることです」という答えである。この答えはもう少し長い五言律詩で表されていてその結句の二句である。

この偈の全体を概略すると、「日々のことは特別のことはありません、たまたますべては整っていますし、、一つとして取捨もしません(自分の計らいを入れて選んだり選ばなかったり、とはしない)、どこでもたぶらかされたり、そむかれるようなこともありません、私には紫の衣も緋の衣も称号なども関係ありません、この山には一点の塵もありません。」

次にこの二句につながっている。私の師匠は人々に揮毫きごうを頼まれると、「運水搬柴是神通(水を運び柴を搬ぶ、是れ神通なり)」と筆を揮っていらっしゃった。

龐蘊居士は在家のままで、禅に参じた禅者であるが、龐蘊居士の日々は、日常の営みが即神通の働きであり、妙用である、と言い切っている。

電車の中を見回すと、携帯電話のゲームに夢中になっている人々が何人もいる、恥じらいもなく人前で、マスカラーやアイシャドウを塗ったりと、お化粧をしている女性もいる。このままで仕事に赴くのでは心構えが真っ当ではない、と私は思う。

そういう私自身はどうか、常に我が身を振り返らなくてはならない。日常のことを神通と言い切れる私であるようにと、とどのつまりは自戒になった。

*龐蘊居士:馬祖道一ばそどういつ下に数えられるが、多くの禅師の門を叩いている。字は道玄。衡陽(今の湖南省)の出身。後に襄陽(湖北省)に移り住み、竹ざるなどをつくって生計を立てていたという。石頭や馬祖だけではなく、丹霞天然たんかてんねん、大梅法常だいばいほうじょう、薬山惟儼やくさんいげん等等、多くの禅者と往来した。一生髪は剃らなかったが、越格おっかくの悟りの境地を開いたといわれている。維摩居士ゆいまこじの再来とも言われた。

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6 コメント

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真っ当に (うさじい)
2007-06-09 18:58:38
真っ当に生きる。

良い言葉ですね。

全うに、真っ当に生きる。

下手な生き方かもしれない。

でも、自分で納得できる真っ当な生き方。

根気の要る草刈や草取り。

真っ当にやらなかったら、真剣にやらなかったら
直ぐばれる。
周りは、この道何十年の熟練者ばかりだから
いやいややったな、と直ぐばれる。

今日も真っ当な仕事ができました。
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うさじいさんへ (風月)
2007-06-10 12:47:03
真っ当、とはいい言葉だと思います。

此の世でどのように生きるかというとき、野球選手とか芸能人とかお金持ちとか言う前に、真っ当に生きる、と言って貰いたいと思います。自分自身の日々にもそう思います。

草刈り作務は、この頃は暑いので大変でしょう。私も夢中で草取りをして、腰を痛めてしまいましたが、ほどほどに休むことも知らなくては、とその時に学びました。

しかし、草取りをした後の境内の清々しさはなんとも言えない満ち足りた気持ちがしました。

何事にも清々と生きたいですね。うさじいさんの仕事の後の清々しさを感じます。
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計らいをしない (光泊)
2007-06-11 06:59:21
計らいをしないと言うのは、私の理想とする老荘思想と同じですね。上善は水のごとし、知足知止、無為自然、絶学無憂、無用の用などに通じます。
計らいをしないで、あるがままに生きることは、真っ当な生き方と言えるでしょうか。
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光泊さんへ (風月)
2007-06-11 13:53:48
はからいをしない生き方ということを、そのままとか、無為自然と訳しますと、老莊思想に通じるでしょう。というより老莊思想そのものでしょう。

ただ仏教ではそれだけではなく、六波羅蜜という大事な実践すべき徳目がありますので、そのなかに精進という項目がございます。

持戒もあります。その他をあげれば、布施、忍辱、禅定、智慧ということになります。

ですからただ「はからいなく」という言葉の意味は是非、善悪の区別をしないこと、この龐蘊居士の場合、これが高価そうなものだから取っておくとか、これはいらないから捨てるとか、世俗の価値判断をしない、ということ、それを超えた境地ということを言っているのだと思います。

あるがまま、という言葉はなんでもよいのか、ということになる危険性はあるのではないでしょうか。

あるがままで、真っ当なのは、孔子の「七十にして己の欲するままに随って規を超えず」(漢字は違っているかもしれません)といえる場合でしょうか。
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竹林 (春女)
2007-06-11 19:01:11
真っ当に生きるはこの竹林の写真でしたでしょうか。見過ごしました。
竹藪はとても不気味で怖い気がします。それでも竹の子、かぐや姫を考えると身近な存在ではあります。
田舎には竹藪が沢山ありました。大風が来ると藪全体がザワザワして、子供心に見ていると何故か胸が騒ぎました。不安感、焦燥感。追い立てられるような感じ、でも何をすればよいのか分からない感じ。
大人になって(老境?)その感じの意味が何となく分かりました。そして次のへぼ俳句になりました。
  煩悩の沸き立つ様か藪に風
上空から風に揺れる竹藪を見たこともないのに、何故でしょう。何時でも上空から見ている竹藪をイメージ出来ます。私を引き込もうとして、大揺れに揺れます。潮の中の海草のように。足元がもぞもぞします。自分を見失いそうで怖くなり、一端目をきつく閉じてかっと開き、イメージを払拭します。
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春女さんへ (風月)
2007-06-12 22:13:09
この竹林は近所にあります。東京の一角にある竹林ですので、それほど深くありませんから、少しも恐くはありません。

風に揺れる姿も風が見えるようで、楽しいです。ほう蘊居士という人は竹篭などを作って、なりわいとしていたので、なにか話の内容に合う写真を後から付けました。

我が家のパソコンでは写真を簡単には添付できないのです。ほう蘊の「ほう」という字もでません。

田舎の竹林はさぞや大きな林だったのでしょうね。それとも子供でしたので、余計に大きくかんじたのかもしれません。

今見るとそれほではないかもしれないですね。
  風渡る竹一斉になびかせて
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