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維摩の不二の法門

2023-12-26 19:23:35 | Weblog

12月26日(火)晴れ【維摩の不二の法門】

二元論について、実はしつこく考えているのです。二元論の過ちと言ってもよいでしょうか。(自分がかつて書きました記事から学んでみます。)

そこで『維摩経』の中に説かれる「入不二法門品」で説かれる「不二の法門」から、少し学んでみたいと思います。

維摩が「二元対立を超えた不二の法門に入ることはどのようなことか」と質問をしますと、31人の菩薩がそれぞれの見解を述べます。

例えば喜見菩薩は、「色と空と二元的に対立しますが、色こそが、まさに空の本性なのです。色が消滅することで、空の本性があるのではありません。云々」

善意菩薩は、「輪廻と涅槃ということ、これが二元的に対立するものです。」輪廻の本性を見れば、輪廻することもなく、完全に涅槃することも有りません。云々。

現見菩薩は「尽きることと尽きないこと、これが二元的に対立することです。尽きることとは、究極まで尽きること、それはもはや尽きることは無い、云々」

等々、二元的に対立するものと、その対立がなくなることを説き、不二の法門を具体的に解き明かしていきます。そうして、ついに文殊菩薩が維摩居士に「それでは、不二の法門に入るあなたの教説をお説きください」とお聞きしました。

しかし、維摩居士は沈黙して何も語らなかった、というのです。

これが「維摩の一黙、雷の如し」と言われる有名な一シーンです。

しかし、維摩居士の一黙だけが重要なのではなく、それぞれの菩薩が、二元対立を超えたところを説いている、それがあっての一黙です。さんざん語った後の言語の持つ限界を、維摩は示したと言えましょう。

分からないなりにしつこく考えますと、本当の自分、本当でない自分、などという分け方さえしそうな危険があります。

いずれの姿も自分という姿であると、受け入れていく2ならず3も4も5も変幻自在の自己の姿を楽しむことができるでしょう。

地球人類もいくつもの姿を現していますが、さて、戦争をしている姿は受け入れられません。

明日は、イタリア人の知り合い(天からの依頼だそうで)の代参で、富士山に行って来ます。登りませんよ、麓です。

あまり寒くありませんように。

皆さんも風邪にはご注意を。天からの伝言があなたの心にも、何かあるかもしれませんね。

 



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