風月庵だより

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仏舍利について

2007-10-08 21:43:22 | Weblog
10月8日(月)雨【仏舍利について】(金沢兼六公園から見えた白い舎利塔)

三日間、過ぎましたね。私は御陰様でようやく一区切りがつきました。一昨日はさあ始めようかと思いまして、作成途中の原稿をいれたUSBを家のパソコンで立ち上げようとしましたが、このUSBのドライバーが家のパソコンに入っていませんでした。泣きそうになりましたが、駒沢大学まで行きまして、友人に移し替えて貰って「めでたし」でした。こういう時も持つべきものは友ですね。

さて、この度は仏舍利ぶっしゃりに関することをいろいろと調べました。「舎利礼文」というお経に関する研究発表をしますので、それに関連して、仏舍利に関することも調べたりしましたので、そのうちの霊験譚を一つ紹介します。

それは『沙石集』という仏教説話集におさめられたお話。『沙石集』は無住道暁というお坊さんによっって、弘安6年(1283)に成立しました。無住は禅も密教も学んだ僧です。

「仏舍利感得の人の事」(仏舍利を願がかなって得た人の事)という題の話。(文章は私流に訳させてもらいました)河内の国(現在大阪府の東)に生蓮房というお坊さんがいたそうです。生蓮房は仏舍利を得たいものだと、とても強く願っていて、「舎利礼文」を毎日五百返唱え、五体投地をして礼拝していたそうです。それを14,5年も続けた後に、弘法大師の御廟を詣でて、さらに真剣に「仏舍利を吾になにとぞ」とおそらく願ったのでしょう。願いに応じるかのように御廟窟から一人の老僧が出てきました。そして「そこにおる者に頼みなされ」と云ったそうな。

生蓮房は驚いて、傍らに寝ている男を起こして頼みました。「舎利を持っているのでしょう、お渡し下さい」と云いましたところ、「浄土堂へいらっしゃい、お渡ししましょう、お安いことです」というではありませんか。生蓮房が付いていきますと、灯も無いのに光り輝いている水晶でできた塔のようなものを取り出し、その中から十粒ほどの舎利を出したそうな。「この中から一粒選びなさい」と生蓮房は云われました。「どれが吾に縁のある舎利なるか」と手を合わせて祈っていますと、なんと、一粒の舎利の方から、生蓮房に這ってきたそうです。生蓮房、「感涙抑えがたかりけり」と原文にあります。

さて、『沙石集』の話はまだ続きますが、ちょっと離れます。何故生蓮房はこんなにも仏舍利を手に入れたかったかというと、この時代は仏舍利信仰が盛んだったのです。仏舍利は早くには蘇我馬子(?~626)の時代にもたらされたそうですが、鑑真和上(688~763)もお持ちになったり、弘法大師空海(774~835)や慈覚大師円仁(794~864)も仏舍利を中国から持ち帰ったと云われます。お釈迦様の仏舍利がそんなにたくさんあったのかと不思議ですが、もっと不思議なことは、真言律宗の叡尊(1201~1290)という高僧が舎利を礼拜する舎利会しゃりえをしますと、2000粒ぐらいの舎利が4000粒ぐらいに増えている、舎利湧出ということがあったそうです。そこでわざわざ舎利を勘定する『舎利勘計記』などという記録まで残されています。

この舎利を持っていますと、いろいろな功徳があるということなので、天皇や貴族たちもこぞって手に入れたがったようです。舎利を頂くことを奉請ぶじょうと言って、一粒でも有り難く奉請したのです。そして一代一度舎利会といって、奉請した舎利で舎利会を行うことが流行ったそうです。その目的は後生を頼むことや今生の福を頼むことでしょうか。
一粒の舎利の有り難さを見せることができたのは、叡尊たち僧侶に不思議な力があったからでしょう。叡尊たちは、釈尊の教えを信じ、その舎利をその象徴として大切に祀り、真剣に人天の福を願い、平安を祈願したからではないでしょうか。

いずれにしましても、お釈迦様の舎利のみならず、お骨を大事にする民族は多いのではないでしょうか。仏教圏は確実にそうでしょう。

私が子どもの頃に観ました映画、『ビルマの竪琴』でもそうでした。安井昌二さんが演じた水島上等兵が、ビルマ僧の姿になって、日本に帰還する所属部隊を見送るシーンは、今でも脳裡に焼き付いています。「水島、一緒に帰ろう」と戦友たちは叫びます。しかし彼は無言で静かにその場を立ち去るのです。おそらく水島は、ビルマで戦死した戦友たちのお骨を弔うために、ビルマの土になることを決心していたのでしょう。これはフィクションですが、純粋な少女であった(?そういうときもありました)私にはとても心に残った話でした。少女時代にこの映画を観たことが、私が出家したことに、少なからず影響を与えているように思います。

この度ミャンマー(ビルマ)で拷問にかけられ、虐殺された僧侶の方々や市民の人々のご遺体は、荼毘に付されているのでしょうか。お袈裟をはぎ取られて、川に無慚に投げ込まれていた僧侶の方は、どなたかに荼毘に付して頂けたのでしょうか。気にかかります。

今日は長井健司さんの告別式でした。ご冥福を祈るばかりです。

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8 コメント

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佛舎利 (うさじい)
2007-10-10 05:48:38
中井貴一が主演のヘブンアンドアースhttp://www.sonypictures.com/intl/jp/movies/heavenandearth/immersive/
で運ばれている宝物が佛舎利です。(まだ観てなかった人ごめんなさい)

お釈迦様は、ご自分の骨を特別視することを臨終に臨んで厳に戒めておられます。しかし、我々仏教徒にとっては、まさに宝物以上のものとして特別視したいですよね。

上記の映画、描き方に不満足な点はあるものの、中井貴一好きは必見です。中国語の発音の見事なこと、役を見事に演じきっていることに満足しました。
チアン・ウェンの隊長も、人間としての温かみと頼もしさを見事なまでに演じています。
中国は良い役者がいますね。
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うさじいさんへ (風月)
2007-10-10 10:43:59
中井貴一の演じる『ビルマの竪琴』もありましたね。それも観ましたが、やはり白黒映画のなんともいえない雰囲気と、それを観た年齢の違いもあるでしょうが、安井昌二さんのとはひと味違いましたね。

『ヘブンアンドアース』も2月上映だそうですから、観に行きたいと思います。日本からの望郷の遣唐使と、熱血の軍人との話のようですが、そこに仏舍利がからんでいるとは興味のあることです。

情報ありがとうございました。
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Unknown (うさじい)
2007-10-10 16:53:59
2月と言っても2004年の2月です。DVDでお楽しみ下さい。

ビルマの竪琴の件、昔のものは薄らと記憶にありますが覚えておりません。中井貴一のものは、残念ながらまだ観ておりません。

ミャンマーの軍事政権もそろそろ崩壊の時期でしょう。僧に対してまで手を出した愚か者には、佛罰が下って欲しいものです。
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少し分りました (春女)
2007-10-10 18:47:42
今日の記述で、風月さんの出家とビルマの関係が少し分りました。
長井さんはどうやら殺されるべくして、殺されたようですね。
日本政府は何としても最後のビデオテープを回収して、世界に発信して貰いたいと思います。そうしなければ長井さんの魂は浮かばれないでしょう。
長年の利権にまみれた軍事政権を民衆の力で革命することは無理でしょう。早急な国連の圧力、介入が必要だと思います。
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うさじいさんへ (風月)
2007-10-10 21:18:09
なんと2004年でしたか。わざわざお教えいただき有り難うございました。

罪のない人々を虐殺しているミャンマーの軍事政権が崩壊のときであるならばよいのですが、はたして如何な状況でしょうか。
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春女さんへ (風月)
2007-10-10 21:26:00
長井さんが日本人に見えていれば、狙われることはなかったかもしれません。カメラを回している人間としてマークされ、格好も外国人かどうかの区別がつかなかったからの可能性が高いでしょう。

カメラは戻ってきても、写真は消されているでしょう。
日本人の常識は通用しない相手です。相手の常識はなんであるか、その常識を理解しないと解決の糸口は見つからないのでは、と素人考えですが、考えています。
アメリカが割合にうまく日本統治をしたのは、日本人研究をかなりしたのではないでしょうか。
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アメリカは日本人を研究した (光泊)
2007-10-12 18:33:37
アメリカが割合うまく日本を統治したのは、日本人研究をかなりしたから・・・との風月さんのコメント。
ルース・ベナデッィクトの「菊と刀」を読んで、研究したことはそうだと思います。
かなり的を得た研究だと思いますが、中でも「義理は返済期日のある負債、恩は返済不能の負債」(表現は違っているかもしれません)は、なるほどと思いました。
この研究が戦後の日本統治に役立ったかは知りません。むしろ如何に戦争を終結させるかの為の研究だったと、理解しています。
私は日本統治がうまく行ったのは、日本人サイドにあったと思います。勿論、天皇を戦犯で処刑しなかったことが、最大の治安維持の原因だと思いますが、日本人のいざぎよさがアメリカの統治をスムーズに進めたと思います。
いざぎよさとは、失敗を素直に認め、過去の自分と決別して、新たな状況に順応するとでも言いましょうか。終戦後過去の価値観の基に、米軍にテロ攻撃した軍人、民間人はいないのですから。

一方新聞の養老氏のコラムに書いてありました。曰く「日本人にとって、考えを変えることは難しい。」
考えを安易に変えるのは、節操がない、一貫性がないなど、人間としてマイナスのイメージです。
しかし養老氏は自分を含めてかなりの人が敗戦によって考えを変えたといっています。

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光泊さんへ (風月)
2007-10-13 14:21:56
日本人はたしかにテロもしませんし、報復行為もしませんでしたが、光泊さんの仰る通りですね。
それぞれの民族によって似た傾向を持っていますから、日本人という塊として考えたとき、似通った反応を示すのでしょう。
その根底に何があったかと、ということになりますと、また興味のあることですが、神道や仏教があったのではないか、また農耕民族でる、ということがあったのではないか、また四季のある自然環境もあったのではないか、その他もろもろありましょう。

もっとも統治の問題ではなく、あくまでも外交の交渉事をする上で、相手を知らなくてはならない、という点から、この話は始めましたので、日本人がまた東南アジアを統治したいのかと思われないように気を付けて私も書かなくてはならないと思います。間違えてとる人はいないと思いますが、念のため。

ご意見有り難うございました。
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