5月12日(土)晴れ【お節介おばさんの弁】
朝、出勤途中の出来事。小学生の集団が、遠足にでも出かけるのだろうか、賑やかに駅前の一角にしゃがんでいた。そこに目の不自由な女性が杖をたよりに歩いて来た。引率の先生は、周章てて子供たちを後ろに下がらせた。その女性は気配に気づいて、足を止めたが、引率の先生こそ、その行く手をかなり遮ってしまっていた。
先生の立っている位置と子供たちの先頭の一列が坐っている場所は、視覚障害の人のための黄色の誘導用ブロックの上である。私は改札に行きかけたのであるが、思わず戻って先生にお願いした。「先生、そこは坐らせてはいけない場所です。子供たちにもこの機会に教えてあげて下さい」と。
日頃、何の気なく見過ごしているが、黄色の視覚障害者誘導用ブロックは駅や公共の場には設置されている。ホームの黄色の線も視覚障害の人のためのブロックである。以前はよく「白線まで下がってお待ち下さい」と駅の放送はあったが、それが黄色になったの「視覚障害者誘導用ブロック設置指針」が出されてからであろうか。(昭和60年に出された設置指針のコピーをこのログの最後にあげておきました)
私は時々お節介をするが、「完璧な人間でないのに、人に注意をするのは間違ってはいないだろうか」と、言う人がいる。確かに、間違いなく、私は完璧な人間などではない。むしろ欠陥人間のほうの部類である。しかし、何時の頃からか、自分もそのうちこの世から消えて無くなる、と思うようになってからだろうか、時々お節介おばさんを演じている。(もともとかしら?)
他人にお節介することは難しいし、資格はあるのか、と言われると、資格などは全くない。お節介をするときの基本は、お節介と認識しつつ、非難するのではなく、お願いをする気持ちで述べることだろうか。(しかし、いちいちそれほどに考えているわけではない)
ある時の事を思い出した。小学1、2年生位の少年が、横断歩道を行ったり来たりして遊んでいるのを目にしたときのことである。十字路にある横断歩道なので、危険きわまりないことをしているのである。私は車から降り、少年の手をつかまえて歩道に連れてきた。「坊や、危ないことをしてはだめよ。車にはねられたらどうするの。命は一つなのよ」と勿論注意した。少年は驚いたようにコクンと頷いた。
その少年の胸には名札がつけられていた。何年かたってもその名前を覚えている。彼の苗字は、大事な実印を、私が落としたときに、拾ってくださった人の苗字と同じだった。その人はその交差点の近くに住んでいるので、その家の子どもかもしれない。そうでないにしても助け合いが巡り会っているように、今でも思い出す。
やたらめたらにお節介をしているわけではないが、言われた人の気を害さないよう、気を付けたいとは思っている。ホームの端にじっと立って、電車が入ってくる放送をしているのに、動かない人を見れば、「さがった方がいいですよ」と言い、駅の階段などで、乳母車を抱え、さらに荷物を持つ母がいれば、荷物を持ってあげたり、できる範囲のお節介を焼いているだけのことである。そんなですから、今しばらくのお節介、お許しを。
*視覚障害誘導用ブロックについて:
昭和60年8月21日 都街発第23号 道企発第39号都市局街路課長・道路局企画課長から北海道開発局建設部長・沖縄総合事務局建設部長・各地方建設局道路部長・各都道府県土木部長・各指定市都市計画局長・土木部長・道路四公団担当部長あて
通達
今般、別添のとおり、視覚障害者誘導用ブロック設置指針を作成したので、今後これによられたく通知する。 なお、「歩道および立体横断施設の構造について」の取扱いについて(昭和48年11月14日 都街発第57号、道企発第61号)のうち「2 その他留意事項 2)盲人対策」、参考図-8及び参考図-9は削除する。
別添
第1章 総 則
1-1 目 的
本指針は、視覚障害者誘導用ブロックの整備に関する一般的技術的指針を定め、その合理的な計画、設計、施工及び維持管理に資することを目的とする。
1-2 適用の範囲
本指針は、道路法の道路に視覚障害者誘導用ブロックを整備する場合に適用する。
1-3 視覚障害者誘導用ブロックの定義
視覚障害者誘導用ブロックは、視覚障害者が通常の歩行状態において、主に足の裏の触感覚でその存在及び大まかな形状を確認できるような突起を表面につけたブロックであり、道路及び沿道に関してある程度の情報を持って道路を歩行中の視覚障害者に、より正確な歩行位置と歩行方向を案内するための施設である。
朝、出勤途中の出来事。小学生の集団が、遠足にでも出かけるのだろうか、賑やかに駅前の一角にしゃがんでいた。そこに目の不自由な女性が杖をたよりに歩いて来た。引率の先生は、周章てて子供たちを後ろに下がらせた。その女性は気配に気づいて、足を止めたが、引率の先生こそ、その行く手をかなり遮ってしまっていた。
先生の立っている位置と子供たちの先頭の一列が坐っている場所は、視覚障害の人のための黄色の誘導用ブロックの上である。私は改札に行きかけたのであるが、思わず戻って先生にお願いした。「先生、そこは坐らせてはいけない場所です。子供たちにもこの機会に教えてあげて下さい」と。
日頃、何の気なく見過ごしているが、黄色の視覚障害者誘導用ブロックは駅や公共の場には設置されている。ホームの黄色の線も視覚障害の人のためのブロックである。以前はよく「白線まで下がってお待ち下さい」と駅の放送はあったが、それが黄色になったの「視覚障害者誘導用ブロック設置指針」が出されてからであろうか。(昭和60年に出された設置指針のコピーをこのログの最後にあげておきました)
私は時々お節介をするが、「完璧な人間でないのに、人に注意をするのは間違ってはいないだろうか」と、言う人がいる。確かに、間違いなく、私は完璧な人間などではない。むしろ欠陥人間のほうの部類である。しかし、何時の頃からか、自分もそのうちこの世から消えて無くなる、と思うようになってからだろうか、時々お節介おばさんを演じている。(もともとかしら?)
他人にお節介することは難しいし、資格はあるのか、と言われると、資格などは全くない。お節介をするときの基本は、お節介と認識しつつ、非難するのではなく、お願いをする気持ちで述べることだろうか。(しかし、いちいちそれほどに考えているわけではない)
ある時の事を思い出した。小学1、2年生位の少年が、横断歩道を行ったり来たりして遊んでいるのを目にしたときのことである。十字路にある横断歩道なので、危険きわまりないことをしているのである。私は車から降り、少年の手をつかまえて歩道に連れてきた。「坊や、危ないことをしてはだめよ。車にはねられたらどうするの。命は一つなのよ」と勿論注意した。少年は驚いたようにコクンと頷いた。
その少年の胸には名札がつけられていた。何年かたってもその名前を覚えている。彼の苗字は、大事な実印を、私が落としたときに、拾ってくださった人の苗字と同じだった。その人はその交差点の近くに住んでいるので、その家の子どもかもしれない。そうでないにしても助け合いが巡り会っているように、今でも思い出す。
やたらめたらにお節介をしているわけではないが、言われた人の気を害さないよう、気を付けたいとは思っている。ホームの端にじっと立って、電車が入ってくる放送をしているのに、動かない人を見れば、「さがった方がいいですよ」と言い、駅の階段などで、乳母車を抱え、さらに荷物を持つ母がいれば、荷物を持ってあげたり、できる範囲のお節介を焼いているだけのことである。そんなですから、今しばらくのお節介、お許しを。
*視覚障害誘導用ブロックについて:
昭和60年8月21日 都街発第23号 道企発第39号都市局街路課長・道路局企画課長から北海道開発局建設部長・沖縄総合事務局建設部長・各地方建設局道路部長・各都道府県土木部長・各指定市都市計画局長・土木部長・道路四公団担当部長あて
通達
今般、別添のとおり、視覚障害者誘導用ブロック設置指針を作成したので、今後これによられたく通知する。 なお、「歩道および立体横断施設の構造について」の取扱いについて(昭和48年11月14日 都街発第57号、道企発第61号)のうち「2 その他留意事項 2)盲人対策」、参考図-8及び参考図-9は削除する。
別添
第1章 総 則
1-1 目 的
本指針は、視覚障害者誘導用ブロックの整備に関する一般的技術的指針を定め、その合理的な計画、設計、施工及び維持管理に資することを目的とする。
1-2 適用の範囲
本指針は、道路法の道路に視覚障害者誘導用ブロックを整備する場合に適用する。
1-3 視覚障害者誘導用ブロックの定義
視覚障害者誘導用ブロックは、視覚障害者が通常の歩行状態において、主に足の裏の触感覚でその存在及び大まかな形状を確認できるような突起を表面につけたブロックであり、道路及び沿道に関してある程度の情報を持って道路を歩行中の視覚障害者に、より正確な歩行位置と歩行方向を案内するための施設である。
しかし自分だけ良ければいいと言う、利己的な現代日本においては、ややこしいことに関わりあうのは自分にとって損だと思う人ばかりです。
しかしそう言った態度は、あるときには犯罪者に加担することになります。先ごろあった電車の中での強姦事件です。電車のトイレまで女性が連れ込まれたのに、回りの人は何のアクションも起こさなかったようです。その場に居た人は、共犯者として全員自首するべきです。
そうでない人も、衆目の中で、第三者を注意するのは、自分の経験でも勇気が要ります。そのときは資格など意識になく、周囲を気にして勇気を奮い起こすことに懸命です。
私の最近の経験では、川に来た鷺に向かって石を投げている少年が居たので、大声で注意しました。回りに散歩している人が居たので、結構勇気が要りました。
この頃は内弁慶で自分の子供をしかったり、虐待する親は多いのですが、人の子供をしかれる親は少なくなっています。(しかれなくても殺す人はいます。)
家庭が核家族になり、特に都会では地域でも家庭ごとにバラバラです。もう一度社会と個人が共生する社会の回復のために、お節介人間の活躍が期待されます。
その為には、「全国お節介連盟」等と、共感者を組織化する必要もあるでしょう。
風月さん、会長になってやりませんか。
しかし、なんで私がお節介に対して、少し弁解がましいことを書いたかというと、実はある友人、気の置けない友人と思っていましたが、傘を降りながら歩いているので、それは危ないから、と言いました。いつもそのような光景を目にしていて、もし子どもでも走ってきて、そこに傘の先でも振られたら危ないと、常々思っていました。そしてその後この朝の話をこんなことがあったんですよ、と話しましたら、「自分も完璧な人間ではないのに」と言われまして、ちょっと、思うところありのお節介おばさんだったわけです。
人間として許し合える友人と思っていても、なかなかお節介は難しいです。人の気分を害してしまったのでしょう。気を付けなくてはいけないと、自戒しつつの弁なのです。