11月4日(水)晴れ【本覚思想を学ぶ その1】
本師がご存命の頃の事、お寺の単頭和尚さんが、山主老師である本師のお部屋に急いで上がってこられた。
「山主様のことを、本覚思想でけしからんと、騒いでいるグループがあるようです」というようなことを言われた。当時行者(あんじゃ)をしていたので、お茶をお持ちして耳にしたことでした。
その当時、全く学問的な勉強はしていませんでしたので、「本覚思想ほんがくしそう」とは一体何なのであろうか、本師を「けしからん」とは聞き捨てならない表現だと思いました。後で聞いてみましたら、当時「本覚思想批判」という旋風が学者先生の間で起こり、それが宗門内でもかなり問題視されていたようです。
分かりやすく言いますと、「そのままでよい」というようなとらえ方に対する批判と言えばよいでしょうか。
道元禅師が、「本来本法性、天然自性身」なのに「諸仏は何が故にさらに発心修行なさるのでしょうか」という疑問を持たれて、三井寺の公胤僧正にお尋ねになりましたが、答えを得ることはできませんでした。その答えを求めて、道元禅師は、比叡山を下りて、修行行脚の旅に出られ、中国の天童如淨禅師様の下で「只管打坐」の修行をなさり、「修証一等」(修行と証(さとり)が一体である)と、お悟りになった、といってよいでしょうか。(この「お悟り」という表現には、クレームがつくかもしれませんが)
ですから曹洞宗の僧侶としては、「そのままでよい」という表現は、気を付けて使わなくてはならない表現と言えましょう。(しかし、本師も相談を受ける相手によって、在家の方で厳しい人生を歩まれている方を相手に、もっと修行せい、とはおっしゃらなかったのだと思います。)修行者に対しては、「そのままでよい」とは言わなくてよいでしょう。「もっと修行せい」とおっしゃらなくても、ご自身も弟子とともに坐禅の日々をお過ごしになりました。弟子の一人である私自身も、本師の教えを守って、老いても坐禅を欠かしたことはありません。在家の方々への講演録をまとめた本に書かれた一面を見て、「本覚思想」と批判されることは不要でしょう。
さて、前置きが長くなりましたが(ここまで前置きです)、あらためてまた「本覚思想」について復習してみました。田村芳朗先生の『絶対の真理〈天台〉』(角川文庫ソフィア)を学ばせていただきました。
これから梵鐘を撞きに行ってきます。今日はこの辺で失礼いたします。日没に撞きたいところで、6時はもう真っ暗ですが、そのくらいの時間の方が、少し周りが静かになりますので、梵鐘の音が、この世としては、少し遠方まで届くと願っています。