5月29日(土)曇りのち雨、少し寒い【南泉も牛にはなりたくない】(牛ならぬ猫ですが)
唐時代の禅僧、南泉普願(なんせんふがん、748~834)が世を去ろうとするとき、首座が質問した話。
「師将順世。第一座問曰。和尚百年後。向什麼處去。師云。山下作一頭水牯牛去。」(『景徳伝灯録』巻八)
師、将(まさ)に順世(じゅんせ)せんとす。第一座問う、和尚百年後、什麼處(いずこ)に去(ゆ)くや。師云く、山下(さんげ)に一頭の水牯牛(すいこぎゅう)となり去く。
唐時代は、牛は食用にされなかったのだろうか。もっとも水牯牛は、牛は牛でも水牛だから耕作につかわれるだけで食べられはしなかったろう。食べられてしまうのだったら、牛になって生まれてくる、とは比喩にもつかわなかったろう。またこの度のように大量殺処分などというむごい仕打ちを受けるのなら、勿論比喩にもつかわなかったろう。
(宮崎の牛の殺処分問題は農家の人の問題と、牛の側から見た牛自身の命の問題と両面があるでしょう)
またこの問答は、そのまま受けとめてはいけないので、南泉は「勿謂吾有去来也(吾に去来有りと謂うことなかれ)」と言っているので、首座の問いに対して、分かってないのか、という揶揄も水牯牛の返事には入っているだろう。
馬祖道一(ばそどういつ、709~788)のもとで修行し、南泉山にはいってから40年間、趙州従諗(じょうしゅうじゅうしん、778~897)や長沙景岑(ちょうしゃけいしん、生卒年不詳)等を育てて、生涯を終える。
太和八年(834)一二月二五日示寂。世寿八七。法臘五八。
*趙州との間にも、水牯牛の話がある。また別の機会に。
唐時代の禅僧、南泉普願(なんせんふがん、748~834)が世を去ろうとするとき、首座が質問した話。
「師将順世。第一座問曰。和尚百年後。向什麼處去。師云。山下作一頭水牯牛去。」(『景徳伝灯録』巻八)
師、将(まさ)に順世(じゅんせ)せんとす。第一座問う、和尚百年後、什麼處(いずこ)に去(ゆ)くや。師云く、山下(さんげ)に一頭の水牯牛(すいこぎゅう)となり去く。
唐時代は、牛は食用にされなかったのだろうか。もっとも水牯牛は、牛は牛でも水牛だから耕作につかわれるだけで食べられはしなかったろう。食べられてしまうのだったら、牛になって生まれてくる、とは比喩にもつかわなかったろう。またこの度のように大量殺処分などというむごい仕打ちを受けるのなら、勿論比喩にもつかわなかったろう。
(宮崎の牛の殺処分問題は農家の人の問題と、牛の側から見た牛自身の命の問題と両面があるでしょう)
またこの問答は、そのまま受けとめてはいけないので、南泉は「勿謂吾有去来也(吾に去来有りと謂うことなかれ)」と言っているので、首座の問いに対して、分かってないのか、という揶揄も水牯牛の返事には入っているだろう。
馬祖道一(ばそどういつ、709~788)のもとで修行し、南泉山にはいってから40年間、趙州従諗(じょうしゅうじゅうしん、778~897)や長沙景岑(ちょうしゃけいしん、生卒年不詳)等を育てて、生涯を終える。
太和八年(834)一二月二五日示寂。世寿八七。法臘五八。
*趙州との間にも、水牯牛の話がある。また別の機会に。
生き物が殺されるのは、だれでも嫌です。
それを、最低限で食い止めるための殺処分。
断腸の思いを、それぞれの方が感じているのでしょう。
イギリスはかなりの家畜を処分したのですね。
しかし、やがては人間の食用として殺される運命の牛や羊や豚にとって、家畜側から言えば、今の殺処分も後の殺処分も同じ事になるのでしょうか。
間違いのない大問題は家畜を飼育して生計を立てている農家の方々の苦労が、水の泡になることですね。ゼロよりもマイナスになることがあるのでしょう。
他に被害を及ぼさないためにはやむを得ない対策なのでしょう。他の有効な対策を早くに発見してもらいたいですね。
泣くにも泣けない思いが伝わってきます。生きものを戴いて生きて行かざるを得ない人間と家畜達の、それぞれの宿命に言葉がありません。
どちらも立ち直ってほしいですね。合掌
いずれにしても大量に牛や豚が殺処分されることには、痛ましい思いがします。
沖縄の牛は口蹄疫ではなかったようでよかったです。
伝染病は餌や水だけではなく、口蹄疫が発生している国に旅行した人たちが持ち帰ったのではないか、という可能性を友人が言っていましたが、おおいに可能性があります。