風月庵だより

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身を守る一枚の納税証明

2006-03-12 00:45:43 | Weblog
3月11日(土)晴れ暖か【身を守る一枚の納税証明】
今週は毎日帰りが遅かったので、疲れてしまいブログを書く気力がでなかった。お彼岸明けに、中国禅のお話を聞いてくださるという集まりがあり、その勉強やら研究所の仕事やらであっという間に一週間が終わってしまった。つくづく日記という名を返上して風月庵だよりとしてよかったと、怠け心のいいわけをしている。それでも懸念の確定申告を今週終えたことはなによりであった。

私の収入などは全く微々たるものであるが、収入の無いときもあるときも必ず税金の申告をするようにしている。日本国民としての自覚というよりは、納税証明書の紙切れ一枚がいかに重いものか身にしみて若いときに体験したからである。

1月のブログに書いたが、スイス人の友人が麻薬の運び屋と誤解されて裁判にかけられた。そのようなことをする人物ではないと私は知っている。しかし彼女には数年間の納税証明書がなかったのだ。社会において働いたという証明がなくては、世界中を旅して暮らしていたお金はいったいどのように得ていたのか、疑われてもやむを得ないことであった。

私が大学生であった1960年代の中頃から、アメリカではじまったヒッピー・ムーブメントが世界中の若者の間に広まっていた。1960年代初頭に始まったベトナム戦争に対しての、若者の抵抗の表れでもあったであろう。ベトナム戦争が激しくなり、ベトナムの人々も多く命を失ったが(200万人と推定される)、多くのアメリカ人も戦争の犠牲になった(5万人を越えた)。この愚かな戦争への反動として、若者たちは真の自由を求め、国家や既成の社会に対して敢然と背を向けたのである。(今イラク戦争に対して、アメリカの若者はどのように反応しているのだろうか。)

男性も女性も髪を長くして、インド人のような服装をした世界の若者たちが、東京にもあふれていた。新宿の街には風月堂(今気づいたが、私の号と同じである)という名の喫茶店があって、ヒッピーの溜まり場になっていた。あの頃は街を歩いていても、活気が溢れていたように感じた。そして街のところどころで、アクセサリーなどを売っている彼等の姿をよく見かけた。1970年代に入っても、ヒッピーの外国人たちのアクセサリー売りはあちこちに見ることができた。現在ほど安価な宝飾店が街のあちこちにできる以前のことで、結構よい収入になったようだった。聞いたところによると、人によっては一日に2,3万円の収入になったそうである。路上のアクセサリー売りだけではなく、外国語の教師をしたり、他にも収入をえる方法はいろいろとあったようだ。日本で稼いではしばらくインドや東南アジアを旅するという若者が多かった。

スイス人のA嬢も、そんな風に旅をしている一人だった。泊まるところがないというので、弟が家につれてきたのが、はじめての出会いであった。その弟もスエーデンにその後行ってしまい、三十年以上たつ今でもスーデンで暮らしている。よく僅かのお金しか持たずに、冒険のような旅に出られるものだと私は感心した。私にはヒッピーのように自由に生ききる勇気はなかった。既成の観念に自ら縛られているようなタイプであった。もしヒッピーになれていたら、私は出家する必要はなかったであろう。

しかしそのA嬢が麻薬保持で、スイス警察に捕まってしまったのだ。デリーの空港で人から頼まれたと言っても、それは通用しない理由であった。生活を裏付ける書類がなにもないということ、それは致命的なことであった。一枚の納税証明書があれば、彼女の潔白は証明できたかもしれない。私が送った般若心經の写経は何の役にも立たなかった。

そんな体験から私は必ず税金の申告をしているのである。日本国民として恩恵を受けていることもあるし、国民の義務だと今は思っている。双子のきんさん、ぎんさんが「国民の義務でございます」と答えていたのを印象的に覚えているが、今では私もそう思っているのである。

税制の歴史もちょっと調べてみたら、明治十五年頃から給与所得の源泉徴収は始まったようだ。戦後はシャウプ博士らの日本税制調査団によって、今の税制の制度の元がつくられたようだ。江戸時代以前の封建制の頃を思えば、民主主義の時代に生きていることは幸せなことである。有る人はあるように、無い人はないように、税金を払って日本の国民として生きあっていこう。そして戦争は決して起こすまい。軍備は必要ないかどうか、それは別の問題としても。

1960年の樺美智子さんが圧死した安保闘争の時はまだ中学生だったが、1970年の安保闘争や学生運動の盛んな時に学生生活を送った者としては、アメリカ帝国主義打倒、と叫んで、日本の自立と戦争に加担しないことを願った純粋な心は失いたくないものだ。なんと懐かしい言葉であろうか、アメリカ帝国主義とは。ノンポリ(nonpolitical,政治に無関心の)の学生ではあったが、大学のキャンパスに溢れていた熱気を思い出す。友人がデモで留置されたので、時々差し入れに行ったりしたが、今彼等は平穏に暮らしているだろうか。学生運動は現実と遊離していたり、過激派学生同士の武力闘争にと方向を見失って行ってしまったが、、国家のあり方を真剣に学生が考えていた時代があったのだ。多くの犠牲を払って今がある。今という時代を生きる一人として、役立たずながら、真剣に国のことも、世界の平和のことも考えている。

納税のことから、1960年代のことをいろいろと思い起こしてしまった。短い一文を書こうと思ったのに。税金のことですので、お堅い話になりました。乞ご容赦。


ご親切

2006-03-07 23:49:02 | Weblog
3月5日(日)晴れ【ご親切】
昨年の暮れに駐車違反で黄色い旗をつけられてしまった。(今朝お巡りさんにこの旗の名を尋ねたら、鍵付きステッカーと教えてくれた。8日記)施主家に駐車場が無い場合、交通の邪魔にならないところを探して、法事の間やむを得ず路上駐車をしたのだった。二十年間無事故無違反であったので、この駐車違反は残念であった。(やむを得ずであっても路上駐車はしてはいたのだが)。法事が終わって、家に帰ってから、駐車違反の黄色の旗が車の前に噛みついているのを発見したときは、ショックであった。近くの警察署に行ってロックをはずしてもらったが、罰金一万五千円であることにも、ショックに追い打ちをかけられた。

それ以来なんとしても駐車場を探すようにしている。勿論交通安全のために路上駐車は危険なのだから、それは当然のことなのである。しかし施主家の近くに駐車場が無い場合は本当に困る。住宅街は特に一方通行が多いので、苦労して施主家に辿り着くことが多い。昨日もやっと施主家を探し当てたのだが、駐車場が見つからず、付近をぐるぐる回ってしまった。「すみません、このあたりに駐車場はないでしょうか」と、丁度家から出てきた男性に声をかけた。「駐車場ね、この辺はないんだよ」と、その人は気の毒そうに答えた。困ったという顔の私に、「ちょっと待ってな、隣に聞いてあげよう」と言って、その人はさっさと隣家へ行き、その家のベルを押した。「そんなに長くないんでしょう、いいですよ」と、隣家から出てきたその家の主婦は許可をしてくれた。

こういうケースは本当に稀であろう。この男性のように、わざわざ隣人に頼んでくれるような親切な人は少ない。お陰で車のことを心配しないで、法事に専念できて有り難かった。

そして今日もまた、住宅の込み入った所であったのだが、道行く人に駐車場を尋ねても「この辺にはないでしょう」というばかりであった。車を路上に止めて施主家を先ず探しに行くことにした。地図を片手に、もう一方の手には携帯電話を持ち、住所を見ながら歩いてみると、その家は程なく分かった。携帯電話をして施主家の前にいることを告げ、駐車場を借りてもらえないでしょうかね、と頼んだが、思わしい言葉が返ってこない。と、近くの家の窓が開いて、老年の男性が顔を出し、「そこに止めて大丈夫だよ」と空いている駐車場を指さして言ってくれた。彼が借りている駐車場ではないようである。「俺も十年前まではタクシーの運転をしていたんだけど、この頃はもう乗れなくなったんだよ」と言いながら、わざわざ外に出てきてくれた。「俺が見ていてやるから心配ないよ」とまで言ってくれたのである。

お陰で駐車違反の切符を切られる心配をしないで、ゆっくりとご法事を勤めることができた。昨日といい、今日もまた、二人の老年の人の親切のお陰で、違反切符を切られることなく、法事を無事に勤めることができた。

今年の六月からは、違法駐車取り締まり関係の業務は民間に委託される。違反件数に応じて報酬が支払われることになるだろうから、警察が取り締まる以上に厳しくなることは当然の成り行きであろう。今回のように親切な人に出会えるのは、稀なことなので、駐車に関しては受難の時が訪れることになる。「良好な駐車秩序の確立を図る」ことが、違法駐車取り締まりの目的ではあろうが、駐める場所がどこにもないのに、駐めなくてはならない場合どうしたらよいのであろうか、と、ちょっと思ったが、悩む問題でもないだろう。その時考えれば済むこと、こういうことは、ケセラセラの問題で、なるようになることだ。

東京の違反駐車問題に問題を持って行くよりも、親切だった二人の方に只感謝して、よかった、と思って今日を終えればよいことだった。考えすぎてはいけないよ。考えたり、悩んだりしなくてもよいことを、必要以上に取り上げすぎるのは、やめよう。やめます。明日を思い煩うよりも、今日のことに素直に感謝するのみ。二人のおじさま、有り難うございました。




粋に生きあう

2006-03-02 00:20:16 | Weblog
3月1日(水)雨 【粋に生きあう
朝の満員電車の中、電車が駅に止まってから、男性が人をかき分けてドアに向かって突進してきた。その男の肘が思い切り私の低い鼻にぶつかった。私は痛さで鼻を押さえたが、男はすでに電車から降りてしまっていて、一言の謝りもない。勿論降りることに夢中で私の鼻をしたたかに打ち付けたことなど気にも止めなかったであろう。一言「降ります」と声をかけてくれさえすれば、こちらも反射的に身構えるのであるが、急に肘が先に来られては満員電車のなかではかわしようもない。

男性と限らず女性でも、無言で人を押しのけて降りていく姿を度々に見かける。そんなとき私はいつも寂しい気がする。一言でいいから「おります」と声をかけられないものだろうか。お互いに生きあうということは、特別な事じゃなく、一言声をかけあうようなちょっとした事でも言えるのではなかろうか、と私は低い鼻がさらに低くなりはしなかったかと心配しながら、そんなことを思っていた。

その電車を降りて都営三田線に乗り換えたのだが、電車の中刷り広告に、まさに今朝の私の気持ちにピタリのことが書かれていた。「江戸仕草」と題されていて、その一つ、「傘かしげ」とある。傘をさしている人がすれ違う際は、お互いに傘を少しかしげあって道を行き交う、という仕草のことである。また「こぶし腰浮かせ」とあって、お互いに拳ほど譲り合って腰を浮かせれば、狭いところでもまだ坐ることができる、と言うような電車の中吊りに適した意味が書かれていた。江戸の頃には花火大会でも観るときの席取りの時にでも使われたのだろうか。そして次に「感謝の目つき」がある。急いでいるとき道を譲ってもらったら、すっと感謝の眼差しを、とコメントされていた。全くその通り。そしてさらに「束の間つき合い」というのがあった。「席に座るとき隣の人にちょっと一言」声をかけるというようなことが書かれてあった。まさにその通り。電車から降りるときにもちょっと一声、である。満員電車の中、本当に束の間のおつきあいである。「おりますから」とでも声をかけてくれれば、どんなにお互い気持ちが良いか。「江戸しぐさ」とは落語の世界にでも出てきそうな庶民の姿が偲ばれる粋な仕草のそれぞれである。洒落た広告に心が和んだ。これは公共広告機構の広告であった。(今日もう一度その広告を見たいと思って探したが、見つけられなかった。)

この広告を見たお陰で、日常的に、ほんのちょっと心を遣いあって、生きあっていただろう江戸の庶民の生活などを想像した。そして私がまだ若い頃、寄席の芸人の方と話す機会が度々あったことなどを道々思い出した。その方はよく黒門町の師匠(桂文楽師匠のこと〈1892~1971〉)のことや志ん生師匠(1890~1973)の話など、粋を地でゆく人たちのことを話してくれた。そして誰かが人知れずちょいと、こ憎い気の利いたことなどすると「いいね。粋だね。」とおっしゃったものだ。もしその人が満員電車から降りるとしたら、「ちょいと、ごめんなさいよ」と、今はあまり耳にしない、べらんめぇの江戸弁ともひと味違った芸人言葉とでもいうのだろうか、抑揚も小粋に一声かけて降りて行っただろうと、中吊り広告からそんなことまで思った昨日の朝の出来事であった。

声をかけあえるものなら声をかけあい、または目に気持ちを表すのもよいが、意志の疎通をはかりあって生きあいたいものである。束の間のお付き合い、満員電車から降りるときには、人の鼻にしたたか肘をぶつけていくよりも、ちょいと一言声かけあって、お互い粋に生きあおうではありませんか。

話はちょいと飛びますが、お上(おかみというのは国のことだそうです。)は一体いつまでメール一つに無駄な時間を使っているのでしょうか。庶民の血税からでている議員給与、有効に使っていただきたいものである。永田寿康議員も粋に生きてはどうですか。粋の意味は、自分だけ良ければいいというのじゃない、人の情を大切に、さっぱりと、自分の手柄はむしろ隠して、奥ゆかしく、欲を張らずに、などいろんな意味がありますが。

永田議員どころじゃない、この吾れこそ、粋に生きまほしけれ。