風月庵だより

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核は食べられない、お金も食べられない

2006-12-10 12:47:13 | Weblog
10月11日(水)晴れ午後より曇り【核は食べられない、お金も食べられない】
(*この記事は10月の記事ですが、不用のトラックバックが多いので、削除しやすいように位置を変えました。)
北朝鮮が核実験を10月9日に行ったという。北朝鮮の人々は食べるものが無く飢え死にする人さえいるというのに、核爆弾の研究に多大な出費をしていることであろう。そのお金を食料の増産に振り向けたら、もう少しましな情勢になるのではなかろうか。とにかく核は食べることはできない

北朝鮮に対する制裁について、各国の反応はそれぞれの利害と関わっているので、どうなるかはわからないことだ。アメリカも石油の無い国で大量破壊兵器が造られているとしても、それほどの反応は示さないだろう。唯一の被爆国である日本は、核の悲惨さを世界で最もよく知っている国民である。これからどのようになるのか油断はできないことだ。

さて先日フランス人の友人から広大なフランスの畑の写真を見せられた。なんとなくフランスに対して抱いているイメージと違うが、「フランスは農業国よ」と言われた。面積は日本の約1.5倍、平地は面積の約75%、そして食料自給率は約170%であるという。日本の場合は山岳地帯が約75%であり、自給率は24%であるという。つまり日本は76%を輸入に頼っているが、フランスは自給率は100%であり、70%は他の国に輸出できるほどなのである。

その友人からさらに言われたことは「お金は食べられないわよ」と言われたことだ。日本はお金さえあれば輸入できると思っているが、世界が飢饉になったとき日本には輸出してくれなくなる状態も考えられる。またこのところ円安で1ドルが190円以上であったり、一ユーロが150円以上であったりすると、これ以上円が弱くなると輸入が難しくなることも想定される。

お金さえあれば、いくらでも食べ物を買えると思っていることは実に危険な考えである。この狭い日本の土地に、苦労して先人が開墾した農地が休耕地となっている状態は本当に百年の計には反する状態である。一度荒れてしまった土地を再び農地として蘇らせることは大変なことなのだそうだ。

日本の農業は後継者の問題が大問題であろうが、なんとかこの事を日本全体で考えて自給率のもう少し高い国にしなくてはならないであろう。ジーネヌピーは日本のほうが、フランスよりも1.5倍高いが、とにかく「お金は食べられない」

核も食べられない。なにはなくとも食べるものさえあれば、人類は生き延びることができる。そんなことを考えさせられた核実験と一枚の写真である。


頓写の故事ー写経の功徳

2006-12-08 23:49:21 | Weblog
12月8日(金)曇り【頓写の故事ー写経の功徳】

今朝はどこの僧堂でも一週間の臘八接心を終えて、前門の簾が開けられ、接心を坐りきった爽やかな雲水の顔が見られたことだろう。釈尊の成道(お悟りを開かれた日を成道という)は12月8日とされるので、この日に因んで禅寺では12月1日から一週間、接心といって坐禅をし続ける修行をする。その間にお師家さん(指導者)のご提唱(先人の書いた語録などの師家による講義)を学び、自らの安心に気づく修行ということもできる。

私は我が修行はこれでよいだろうか、と危ぶんでいるが、特にこの頃は坐禅の時間が少ないので、反省をしている。たしかに以前は何十回と接心をつとめたけれども、これは貯金のきくことではなく、今どうなのか、刻刻の修行である。今朝は明けの明星は見えなかったと、今朝坐禅をした友は言った。私は昨日落語を聞きに行ってしまい、帰りが遅かったので暁天坐禅は放参をしてしまった。

今日は、修行の道を誤った僧行という僧が死んでから地獄に堕ちているのを、法友が写経によって救うというお話を紹介したい。この話は、『器之為ばん禅師語録』に入っている。

*頓写とんしゃの故事(*原文は省略)
*新唐書に云く、*唐の高宗永徽年中。*江州盧山寺こうしゅうろざんじに二僧有り。一に云く僧法、一に云く僧行なり。平生の同志なり。爰ここに二人相い誓いて謂いわく、後に死す者は冥界めいかいを助くと。
時に僧行、先に死す。一夕、僧法、夢に冥界に入る。獄主ごくしゅに問うて曰く、此の中に僧行有りや。答えて曰く、これ有り。僧法、これは 我が平生の同志同盟の好なり。願わくば其の形を見まほし、と。
二鬼鉄棒を持し、これを呵責かしゃくす。其の形、黒炭の如し。僧法、又た願うに其の本もとの形を見せしめんと。
一語に通ず。二鬼、鉄棒を擲なげうって、法と叫びて両声去る。即ち本の形に復す。僧行、涕涙悲泣ているいひきゅうして云く、吾れ娑婆しゃばに於いて平生徳用して人を益すること無し。徒らに信施しんせを費やす。故に以て此の苦報を受く。儞なんじ僧侶を募って、一日法花ほっけの妙典を頓写せば、吾れ必ず忉利天とうりてんに生ぜん。僧法、即ち衣鉢を典じ、以て清浄の緇侶しりょを募って、一日法花の妙典を頓写す。其の夕の夢に、僧行、*四八端厳相しはったんごんそうを現じ、これを告ぐ。我れ忉利天に生ず。云云と。
    

【語釈】】
頓写=写経の一種。頓(すみやか)に経文を写す方法。亡者の追善供養のため、多くの僧を集めて行われる。日本では平安朝以来行われている。主として『法華経』が用いられた。ここでも法華経を頓写している。
○新唐書しんとうじょ=二二五巻。宋嘉祐年間(一〇五六~一〇六三)に編纂される。欧陽脩、宋祁等編者。『旧唐書くとうじょ』を改修したものであるから、『新唐書』というが、後には単に『唐書』という。
○唐の高宗永徽年中=永徽元年~六年(六五〇~六五五)
○江州盧山寺=江州は今の江西省九江縣のこと。この「ろざん」は廬山と書く。九江縣の南。古に南障山という。周の時、匡俗がこの山に隠れ、定王の徴に応じないので、使者を使わせたところ、既に登仙して空廬になっていたので、この山を廬山という。廬はいおりの意。
○衣鉢を典じ=衣鉢は通常、僧侶の持物である三衣一鉢のことであるが、ここでは金銭や布帛などの財物を指す。財物の隠語。「示疾覚沈重、預請両序勤旧、点対封収衣鉢行李」(『敕修清規』巻三遷化)
○四八端厳相=既出。仏の三十二相のこと。

【現代語訳】
簡略に訳してみると:僧法と僧行という二人の法友がいた。二人は日頃から、どちらか後に残った者が、先に亡くなった者の菩提を弔うことを約束していた。僧行が先に亡くなった。ある夜、僧法は僧行の夢を見た。僧行は生前、人の役に立たず、いたずらに信施を貪っていたので、地獄におちて真っ黒な炭のようになってしまった。どうか『法華経』の頓写をして私を救ってください、と僧行は夢の中で僧法に頼んだ。そこで僧法は僧侶を募って、『法華経』の頓写をしたところ、その夜の夢に僧行が出てきて「忉利天に生まれることができました。」と言った。

このような話である。写経の功徳と合わせて自戒の話として受けとめておきたい。



*臘八攝心についてはtenjin和尚さんの「つらつら日暮らし」に詳しく書かれています。

神通は求めるものにあらず、されど神通はある

2006-12-03 20:34:40 | Weblog
12月3日(日)晴れ【神通は求めるものにあらず、されど神通はある】

死んだ人間を蘇らそうとした祈祷師と信者の女性が以前北九州市にいたという。11月30日に北九州市で、ミイラ化、白骨化した三人の遺体が発見されたのはこのときの女性の部屋からである。死んだ人間を蘇らせるような神通力があると思いこみ、また信じ込む人もいるのかと驚く。それはありえないことだ。(せつない願いであることは理解できるが)

お釈迦様も、子どもを亡くしてなんとか生き返らせてほしいと泣き叫ぶ母親に、死んだ者は生き返らないし、人は死ぬ者であることをさとらせている話が今に伝わっている。

かつて修行僧の中にも修行すれば神通力が得られると思い違いをしていた者もいたのではなかろうか。馬祖道一という中国唐の時代の禅師が「平常心是道」といい、日々の生活が大事であることを説かれたが、この頃にも生活とかけ離れた神秘的なことを追い求める修行者たちがいたのかもしれない。

お釈迦様の十大弟子の一人に、目連尊者という弟子がいらっしゃった。この方は神通第一といわれ、あの世を見通すことができたといわれている。しかしお釈迦様はそのような神通力を使うことを戒められたという。仏教は神通力を得る教えではなく、この命をどう生きるか、という教えなのである。特に禅の学びはそこにある。内山興正老師という方は「自分が自分を自分する」とも表現された。

一方、生来霊能のある方も、この世にはいらっしゃるようだ。私が出会った方に矢追日聖やおいにっしょう法主様という霊能の有る方がいらっしゃった。この方はお祖母さまも、お母さまも霊能の強い方であったそうである。この方の一生は人々への奉仕であった。奈良の一隅に老人ホームや身障者の施設を作られたり、奈良市から信頼されて病院も造られている。戦後は戦災孤児たちの世話をなさったり等、弱者の救済に一生を尽くされた。(勿論この事実を神通と表現することは可能である)

そして霊界と交流されて荒ぶる霊を静めたり(この世の平和のために)、聖徳太子様や霊界人とも交流なさっていた。(私が心の声に「この日本は聖徳太子のテリトリーです、と言われたのですが、それはどういう意味でしょうか」と訊ねたとき、奥様が「法主さんは聖徳太子さんのお友だちでっせ。よくお会いするようですよ」と法主様の傍らで言われた)このような方もいらっしゃる。私は数回お会いしただけであるが、ご一緒に大倭紫陽花村にお住まいの方々は、法主様が人知を越えた方であったことをよくご存じである。

また私が住職をしていたお寺と縁のある先達の方の中に、霊能の強い方がいらっしゃってやはり人助けをなさっている。先代の方の中には、ある俳優さんの娘さんが誘拐されたとき、犯人の居場所を特定して助け出したということもあったそうである。

生来神通のある方々や、行者さんの修行をして不思議の力を得たという方々が、この世に存在していることは否定できない。まことの神通のある方々は私利私欲ではその力を使うことはない。人々への奉仕に神通の力を使う方がまことの霊能者である。

禅を学ぶ者が神秘的な力、神通力といおうか、を得ようということは過ちである。しかし人知を越えたこともあるのだ、ということを、私は受け入れている。私は受け入れざるを得ない。これは論議の外である。ただまことの霊能は決して人々を迷わすことでも、お金儲けの手段とするようなことではない、ということを明記しておきたい。

死んだ人間を生き返らせるようなことでは決してないのである。

*文中、神通と霊能をごちゃごちゃに使っているが、それぞれの定義をしておきたい。
*神通力:一般的には何事でもなし得る霊妙な力。聖者の具備する六つの不思議な力、六神通。天眼通・天耳通・他心通・宿住通・漏尽通・神境通

*霊能:霊的能力といってよいだろうか。霊能という語は『広辞苑』にも『大漢和』にも無い。霊能者は『広辞苑』にはある。三省堂の『新明解』にもない。(明解さんは独特なのであるかと思ったが)

*霊能者:日常の世界と神霊の世界とを結びつける資質を持った宗教的職能者。預言者。シャーマン・霊媒など。(『広辞苑』)