60歳からの眼差し

人生の最終章へ、見る物聞くもの、今何を感じるのか綴って見ようと思う。

廃村(新川村)

2016年11月18日 08時06分01秒 | 散歩(6)
 今日は雑誌に載っていた新川村を歩いてみることにした。村がある行田市は大宮から高崎線で35分、都心への通勤圏でありながら『廃村』という言葉に興味を引かれた。江戸時代荒川の瀬替え(新しく河道を掘削して河川を付け替え)とともに生まれたこの村は、河川敷の宿命ともいえる度重なる洪水によって、昭和47年に300年の村の歴史に終止符を打った。そして今は住民は堤防の外に居住し、河川敷で農業をする形になっているようである。
 
 行田駅西口から真っ直ぐに歩くと5分で荒川の堤防にぶつかる。上がって見ると眼下には広大な河川敷が広がっている。そこは石ころだらけの河川敷ではなく見渡す限りの畑になっていた。ここにかつて新川村と呼ばれた村があったのであろう。早速土手を下り、畑の中の一本道を歩き始めた。
 
    
 
             河川敷にあった看板に村の歴史が書かれていた。
 
 「ようこそ幻の村、新川へ」・・・・新川村は戦後間もなく廃村になりましたが、江戸時代のはじめの頃から三百年間、五百人余の人々がここに暮らし、舟運や養蚕の村として栄えました。河岸には回船問屋や筏問屋、塩問屋、油問屋が軒を並べ、江戸浅草と武州新川を結ぶ荒川を帆掛け舟が往復し、荷が着く日には大八車や馬を引く人達で賑わいました。又秩父山中から流した木材は筏職人たちが筏舟にして江戸へと運びました。
 
 明治十六年、鉄道の開通で舟運は姿を消しましたが、度々この地を襲う大水は豊かな土壌をもたらし良質な桑が特産となり、養蚕が盛んとなりました。やがて絹からナイロンなどの化学繊維の時代となり養蚕も廃れると、大水に追われるように人々はこの新川村を去って行きました。荒川の瀬替えとともに生まれ、文明の進化により滅びた村新川。私たちはここを幻の村、新川と呼びます。今この地は荒川の遊水地であり、野鳥や野生の動物達の住家となり、ここを愛する人たちのこころのふるさととして息づいています。
 
   
 
                  行田駅西口
 
   
  
                  今の荒川の堤防
 
   
 
                 荒川の堤防の決壊碑
    昭和22年のカスリーン(キャサリーン)台風による荒川と利根川の堤防決壊で
    死者は1,077名、行方不明者は853名と関東地方に甚大な被害があった。
 
                                 
 
  
 
                  水没地域
 
   
 
                堤防の外側にある行田市街
 
   
 
                 堤防内側の遊水地
 
   

            遊水地には車1台が通れるほどの道が続いている
 
   
 
   
 
   
 
   
 
   
 
   
 
   
 
      
 
   
 
              自己責任で遊んでくれと書いてある遊び場
   
   
 
   
 
   
 
   
 
       
 
   
 
                 お墓は今でも残っている
 
   
 
                村にあった石仏を集めたのか?
 
   
 
                遊水地から堤防へ向かう
 
   
 
                    旧中山道
 
   
 
                    東竹院
 
   
 
   
 
        
 
                  
 
   
 
   
   
 
                    元荒川
 
          
 
    都市化などの影響で生息が確認されている地域が急激に減少していった。
    今確実に生息が確認されているのは熊谷市の元荒川源流域のみである。
 
   
 
                    万平公園
 
   
 
                   万平公園
 
   
 
                   熊谷駅西口
 
   
 
                 熊谷駅に停まっていたミニバス
 
        
 
              バスには「ムサシトミヨ」の名が付いている















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