
散歩の途中に写真を撮り、それを編集して親しい人にメールする。そんなことを始めて300回に
なった。300回の記念に少し遠出をしようと思い、今日は茨城県の古河に行って見ることにする。
大宮から東北線に乗って古河駅で下車、地元の観光マップに添って歩き始めた。歩くうちに以前
にも歩いたような気がしてくる。「まあ似たような所は何処にもある」そう思ってさらに歩いて見る。
やがて細い石畳の道の右手に古い屋敷の土塀が見え始めた。なかなか趣のある風情である。
早速デジカメを構え構図を考える。すると、「この風景は、以前にも撮ったことがあった気がする」
そんな感覚が再び起きて来た。「やはりこの古河には来たことがあるのだ。何時だったろうか?」
もう10年前から300回以上も歩いていると、何時どこに行って、どんな順路で歩いて、何を見たか、
そんな記憶はあいまいになってくるものなのだろう。しかし歩くうちにしだいに当時の状況を思い出し
「あそこの角を曲がればレンガ塀の道があるはず」そんな風に芋ズル式に思いだしてくるのである。
記憶は単独でなく、一連の関連付けの中でファイルされているのであろう。だから一旦記憶の端を
つかみ出すと、次から次へと思いだしてくるようである。思い出してしまうと同じ道は歩きたくない。
途中からコースを変え、古河の市中から渡良瀬川を渡り東武日光線の新古河駅まで歩いて見た。
帰ってから以前古河を歩いた時の写真をPCで開いて見た。やはり何処の名所旧跡も今回と同じ
ような構図で写真を撮っていた。そして日付は2007年6月になっている。3年半前のことである。
ということは3年半で「古河に行った」という記憶が飛んだことになる。やはり自分の記憶の不確か
さを認めないわけにはいかない。記憶の衰えなのか、それとも古河の街にそれほどのインパクトが
無かったからなのか。言い訳にはなるが、街並みは思いだしたのだから、街の風景と古河という
地名とがつながっていなかったのだろう。今までに買った本を読み始めたら、途中で以前に読んだ
ことがある本だと気づくことが何度かあった。今回も同じような記憶ミスであろう。タイトルと内容が
はっきりと連結されてないためのダブリ、私にはこの種の記憶の弱点があるようである。
今回はそんな古河の街の写真をアップしてみました。
駅からの散歩 No.300 茨城県古河市 1月15日
古河市は茨城県の西端に位置し、埼玉・栃木・群馬の各県に接している。万葉集にも詠まれており、
古くから関東の要地だった。室町時代後期には関東足利氏が古河公方の拠点とし、江戸時代には
土井利位ら譜代大名の城下町として、また、日光・奥州街道の宿場町として賑わい、市内を流れる
渡良瀬川は河川交通の要所とし栄えた。これら歴史的背景から北関東の小京都とも言われている。
JR古河駅西口
日光街道
旧日光街道
江戸末期からの創業のうなぎの武蔵屋、改築のため6月まで休業
古河藩家老 小杉監物の旧武家屋敷

住宅地もレンガ道や石畳の道が多く落ち着いた雰囲気がある
「炎環」で直木賞を受賞の長井路子旧宅 昔は茶屋問屋だった
長井路子旧宅 内部

篆刻(てんこく)美術館 大正9年建築
篆刻とは、印章を作成する行為、主に篆書を印文に彫ることから篆刻という。
書と彫刻が結合した工芸美術としての側面が強く、特に文人の余技としての行為を指す。
現代でも中国・日本を中心に篆刻を趣味とする人は多い。
篆刻美術館と古河街美術館の間の路地。レンガの壁が続く


古河第一小学校 明治5年創設
石畳の道が続く

鷹見泉石記念館

古河藩が藩士たちのために用意した武家屋敷の一つで、
隠居後もっぱら蘭学にいそしんだ鷹見泉石が最晩年を送った家


座敷

床の間

手水鉢(ちょうずばち)に氷が張っている
鷹見泉石記念館そばの情緒ある道

ふなの甘露煮製造元「ぬた屋」 ふなの甘露煮は古河の名物のようである。
お土産屋
街中にうなぎやの数が異常に多い。
うな丼ランチ、珈琲付きで1000円

番犬の職務に忠実な犬
渡良瀬川に架かる三国橋

渡良瀬川河川敷の古河ゴルフリンクス
渡良瀬川 この川が茨城と埼玉の県境

埼玉県側 東武線新古河駅
なった。300回の記念に少し遠出をしようと思い、今日は茨城県の古河に行って見ることにする。
大宮から東北線に乗って古河駅で下車、地元の観光マップに添って歩き始めた。歩くうちに以前
にも歩いたような気がしてくる。「まあ似たような所は何処にもある」そう思ってさらに歩いて見る。
やがて細い石畳の道の右手に古い屋敷の土塀が見え始めた。なかなか趣のある風情である。
早速デジカメを構え構図を考える。すると、「この風景は、以前にも撮ったことがあった気がする」
そんな感覚が再び起きて来た。「やはりこの古河には来たことがあるのだ。何時だったろうか?」
もう10年前から300回以上も歩いていると、何時どこに行って、どんな順路で歩いて、何を見たか、
そんな記憶はあいまいになってくるものなのだろう。しかし歩くうちにしだいに当時の状況を思い出し
「あそこの角を曲がればレンガ塀の道があるはず」そんな風に芋ズル式に思いだしてくるのである。
記憶は単独でなく、一連の関連付けの中でファイルされているのであろう。だから一旦記憶の端を
つかみ出すと、次から次へと思いだしてくるようである。思い出してしまうと同じ道は歩きたくない。
途中からコースを変え、古河の市中から渡良瀬川を渡り東武日光線の新古河駅まで歩いて見た。
帰ってから以前古河を歩いた時の写真をPCで開いて見た。やはり何処の名所旧跡も今回と同じ
ような構図で写真を撮っていた。そして日付は2007年6月になっている。3年半前のことである。
ということは3年半で「古河に行った」という記憶が飛んだことになる。やはり自分の記憶の不確か
さを認めないわけにはいかない。記憶の衰えなのか、それとも古河の街にそれほどのインパクトが
無かったからなのか。言い訳にはなるが、街並みは思いだしたのだから、街の風景と古河という
地名とがつながっていなかったのだろう。今までに買った本を読み始めたら、途中で以前に読んだ
ことがある本だと気づくことが何度かあった。今回も同じような記憶ミスであろう。タイトルと内容が
はっきりと連結されてないためのダブリ、私にはこの種の記憶の弱点があるようである。
今回はそんな古河の街の写真をアップしてみました。
駅からの散歩 No.300 茨城県古河市 1月15日
古河市は茨城県の西端に位置し、埼玉・栃木・群馬の各県に接している。万葉集にも詠まれており、
古くから関東の要地だった。室町時代後期には関東足利氏が古河公方の拠点とし、江戸時代には
土井利位ら譜代大名の城下町として、また、日光・奥州街道の宿場町として賑わい、市内を流れる
渡良瀬川は河川交通の要所とし栄えた。これら歴史的背景から北関東の小京都とも言われている。

JR古河駅西口

日光街道

旧日光街道

江戸末期からの創業のうなぎの武蔵屋、改築のため6月まで休業

古河藩家老 小杉監物の旧武家屋敷

住宅地もレンガ道や石畳の道が多く落ち着いた雰囲気がある

「炎環」で直木賞を受賞の長井路子旧宅 昔は茶屋問屋だった

長井路子旧宅 内部

篆刻(てんこく)美術館 大正9年建築

篆刻とは、印章を作成する行為、主に篆書を印文に彫ることから篆刻という。

書と彫刻が結合した工芸美術としての側面が強く、特に文人の余技としての行為を指す。
現代でも中国・日本を中心に篆刻を趣味とする人は多い。

篆刻美術館と古河街美術館の間の路地。レンガの壁が続く



古河第一小学校 明治5年創設

石畳の道が続く

鷹見泉石記念館

古河藩が藩士たちのために用意した武家屋敷の一つで、
隠居後もっぱら蘭学にいそしんだ鷹見泉石が最晩年を送った家


座敷

床の間

手水鉢(ちょうずばち)に氷が張っている

鷹見泉石記念館そばの情緒ある道

ふなの甘露煮製造元「ぬた屋」 ふなの甘露煮は古河の名物のようである。

お土産屋

街中にうなぎやの数が異常に多い。

うな丼ランチ、珈琲付きで1000円

番犬の職務に忠実な犬

渡良瀬川に架かる三国橋

渡良瀬川河川敷の古河ゴルフリンクス

渡良瀬川 この川が茨城と埼玉の県境

埼玉県側 東武線新古河駅
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