60歳からの眼差し

人生の最終章へ、見る物聞くもの、今何を感じるのか綴って見ようと思う。

フェルメール

2012年05月11日 08時27分05秒 | 美術
  お客さんと会って商談を終える。別れたのはまだ2時であった。せっかく銀座まで来たのだからと、フェルメール作品だけの展示館に行ってみることにした。場所は銀座松坂屋の裏手のビルの4階である。入り口に「フェルメール光の王国展」と銘打って「フェルメール全37点のリ・クリエイト作品を一堂に展示」とある。当然世界に散らばる本物の作品を一堂に集めることは不可能である。フェルメール作品を最新のデジタルマスタリング技術によって、彼が描いた当時の色調とテクスチャーを推測し原寸大でカンバスにプリントし、所蔵美術館と同じ額装を施して展示したものである。ある意味現存する作品より当時に近い色彩なのであろうが、しかしあくまでも印刷である。入場料1000円(解説のイヤホーンは1000円)である。フェルメールの本物1点を混雑の中で見るか、イミテーションではあるが現存する全作品37点を一気に見るか、それはそれぞれの価値観であろう。

               
                         真珠の首飾りの少女

 私は最近まで全く絵に興味がなかったから、当然「フェルメール」という画家のことも知らなかった。確か10年前ぐらいだったか、「真珠の耳飾りの少女」という映画を見たのがフェルメールを知るきっかけである。絵のモデルになった少女が、フェルメール家に下働きとして来るところから映画は始まる。その少女は陰影、色彩、構図に隠れた天分を持っていた。その才能を見出したフェルメールは彼女に遠近法や絵の具の調合を教える。そんなある日、フェルメールはこの少女をモデルとした絵の製作を決意する。画家が使用人とアトリエに篭りきっている事に、あらぬ噂を呼び、妻は主人が少女に恋愛感情を抱いていると誤解してしまう。そしてとうとう妻は逆上し、立ち入らないはずのアトリエに乱入する。そのアトリエで妻が見たものは、自分の耳飾りをつけたその少女の肖像画だった。そんな映画である。それ以来フェルメールの名は私の頭に残り、時々海外からの美術展にフェルメールが紹介されたポスターなどで、何点かの作品は見覚えていた。
 
 今まで色々な絵画を鑑賞してきたが、私はその技巧のすばらしさは多少理解できても、描かれている内容についてはほとんど理解不能である。例えば果物が並ぶ静物画を見て、例えばピカソの絵を見て、これは何を書こうとしたのか?何を訴えたいのか?どこに価値があるのか?まったく理解できないでいた。だから周りの人(特に女性)に、「どういう風に絵を見をているのか?」と聞いてみたことがある。そのときほとんどの人が「好きか嫌いかだ」という答えであった。私にはその「好きか嫌いか」という感覚が鈍い、だから絵を見て好き嫌いの仕分けができないのである。結果、絵を頭で理解しようとすることから抜け出せないでいる。

 入り口で入場料を払い解説のイヤホーンを借りる。会場では作品は製作年代順に並んでいる。展示室は人がまばらだから、それぞれの作品の前で吹き込まれた解説を聞きながらたたずんでいても、ほかの人の邪魔にはならない。一作一作解説を聞きながら丁寧に見て行くと、フェルメールの真価のようなものが見えてくる気がする。

               
                             デルフト眺望
 
 上の絵はフェルメールには珍しい風景画である。「時計台の針は朝の7時10分を指している。朝のやわらかい光が、時間と空間を超え、雲を超えて光りは始め・・・・・」、そんな解説を聞くと、なんとなくこの絵のすばらしさが解かるようなきがするのである。(写真撮影はフラッシュを使わなければ自由にできる)

               
                             信仰の寓意

 上の絵はオランダ絵画の特徴のひとつである寓意的な表現の作品である。胸を押さえた女性が地球儀を踏みつけている。手前には血を吐く蛇が描かれている。作品中にちりばめられたさまざまな寓意、これは解説を聞かないと解からない。

               
                             音楽の稽古

                
                              絵画芸術       

               
                             牛乳を注ぐ女
         
 フェルメールの作品は、左側の窓から差し込光の構図が多い。この光を反射して輝くところを明るい絵具の点で表現している。この技法はポワンティエ(pointillé)と呼ばれ、フェルメールの作品における特徴の1つに挙げられるそうである。またフェルメールの絵に見られる鮮やかな青は、フェルメール・ブルーとも呼ばれる。この青は、天然ウルトラマリンという高価な顔料に由来しているそうである。

               
                             レースを編む女

 人物など作品の中心をなす部分は精密に書き込まれた濃厚な描写になっているのに対し、周辺の事物はあっさりとした描写になっており、生々しい筆のタッチを見ることができる。この対比によって、見る者の視点を主題に集中させ、画面に緊張感を与えている。『レースを編む女』の糸屑の固まりなどが典型的な例として挙げられるということである。

                
                        ヴィージナルの前に座る若い女         

 これはフェルメールの娘がモデルと言われている小さな小さな作品である。この作品が最近のオークションで30数億円で取引されたとか? フェルメールは22年の画歴の中で37点しか残っていないような寡作な作家である。しかも十数人の子供がいたという大家族であったから、生活は困窮してしていたようである。没後に絵の評価が上がるが、残された家族は大きな借金に追われたようである。芸術家の中で、画家がもっとも恵まれない存在のようだ。


 一通りの絵を見て、私なりに感じたことがある。
 今まで特定作家の作品展を何度か見たことがあるが、年代順に並べてある作品を見ていくと、ある時期からガラリと画風が変わっている場合が多い。それは美を追求していくときのある種の開眼とでも言うのだろうか、画風が定まるというのだろうか、その作家の個性が決まるのであろう。しかしフェルメールの全作品を見てもその画風に際立った変化が無いように感じてしまう。それは20年という短い間に残された作品だからなのか、それとも若くして自分の画風を極めたからなのか、と思ってみる。しかし解説を聞きながら見つめると、同じような構図の絵の中にも、フェルメールが対象に注いだまなざし、奥に展開する隠れたドラマのようなものが見えてくるように思える。そしてそのまなざしは時を経るごとに、愛に満ちたものになって行く。これがフェルメールの価値なのだろう。この企画展、絵を鑑賞するというより、フェルメール研究にはうってつけのように思えた。(7/22まで開催)

               
                         ヴィージナルの前に立つ女

               
                         ヴィージナルの前に座る女

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