源氏物語の存在が記録上確認されてから千年を迎えるという。
作者・紫式部の日記の1008年11月1日の項で源氏物語の記述があることから、
11月1日を源氏物語千年紀委員会が「古典の日」と宣言したというニュースもあった。
そんなことから源氏物語54帖という世界最古の長編小説は今また脚光を浴びている。
源氏物語の特徴は「もののあはれ」。ギスギスした現代社会で、静かに寄り添い、
共感する「もののあはれ」の考え方が今また見直されているようである。
千年後の今の世にも読まれ続ける生命力に圧倒される魅力、複雑で壮大な物語の中に、
詩的な自然描写と人間の心が一体に描かれているという。
物語に合わせて登場人物が行動するのではなく、一人ひとりの登場人物の内側から
物語を描くような構成は現代にも通じるところがある本物のリアリズムだという。
私が源氏物語という存在を知ったのは中学校の社会科の教科書からだったろうか、
そして高校の古文で多少お目にかかったように思うが、その後全く触れることもなく今日まで来た。
千年前の日本の一女性が書いた物語、それを歴史に登場する多くの人物が読み継ぎ伝えてきた。
そんなニュースを見て「自分はそんな名作を読んでないが、それでいいの?」と自問自答が起こる。
「思い立ったら即実行」は今の自分のモットーにしている。早速池袋のジュンク堂へ行ってみた。
さすがに機を捕えてのプロモーション、書店のコーナーに源氏物語関係の本が山積みなっている。
いろんな訳の本が並んでいたが、やはり女性の書いた物語だから女性の訳が良いだろうと思う。
結局瀬戸内寂聴訳の源氏物語文庫本全10巻に挑戦することにし、とりあえず1・2巻を買った。
さあ、読み切れるだろうか、買った後少し不安になる。
桐壷の巻きから話は始まる。
帝(みかど)の後宮に務める更衣の一女性桐壷(源氏の母)に対する異常なまでの寵愛ぶり、
そして桐壷が源氏を生んでから亡くなった時の見るも無残な落胆ぶり、
政務をつかさどる帝がこんな軟弱なことでいいのだろうか、読みながらそんな風に感じてしまう。
そして話は帚木の巻きへと進む。源氏も17歳になり普段はとりすまして女性に興味がない素振りを
しているが、しだいに周りに影響され始める。ある夜、プレーボーイとして名高い公達3人との
女性談義の時に話題になった空蝉(うつせみ)への興味を示し始める。
一向になびかない空蝉、そんなことから源氏の女性遍歴が始まって行くのであろう。
大まかなストーリーは解っていても、読みはじめて行くとすっきりとそのストーリーに入っていけない。
千年前と今との習慣や文化の違い。恋愛というテーマに興味が無いためか退屈なストーリー展開。
文章の流れや表現が現代語訳によっても、なお残ってくる違和感。
例えば 「長押しの下の廂(ひさし)の間に寝ている女房たちが、・・・・・・・・・。・・・・・・・・・・・・・。
源氏が襖の掛け金をためしに引き上げてごらんになると、向こ側からは錠がかかっていませんでした。
そっと入って行くと、几帳を襖口に立ててあって・・・・・・。唐櫃のようなものをいくつか置いてあって、
乱雑に散らかっています。その中を分け入って女の気配がするあたり・・・・・・」など、
家の構造がどうなっていて、どんな場所でどんな夜具を使って寝ているのかまったくイメージできない。
若いころ読んだ外国の翻訳小説のようなもどかしさを感じる。外国の習慣や文化の違いと、訳という
ワンクッションが入ることでの違和感、そんなものが小説の面白さを半減してしまうことに似ている。
それが映画という画像で見ればどんなものであっても、臨場感を持って感じることができる。
源氏物語も文章から入るより、映像から入った方が自分には理解しやすいのではないだろうか。
そんなことを思うと、よりもどかしさを感じて、次第に本を読む頻度が落ちてくる。
やはり自分には無理なのだろうか、少し落胆してしまう。もうすこし読み進んでみて結論をだそう。
作者・紫式部の日記の1008年11月1日の項で源氏物語の記述があることから、
11月1日を源氏物語千年紀委員会が「古典の日」と宣言したというニュースもあった。
そんなことから源氏物語54帖という世界最古の長編小説は今また脚光を浴びている。
源氏物語の特徴は「もののあはれ」。ギスギスした現代社会で、静かに寄り添い、
共感する「もののあはれ」の考え方が今また見直されているようである。
千年後の今の世にも読まれ続ける生命力に圧倒される魅力、複雑で壮大な物語の中に、
詩的な自然描写と人間の心が一体に描かれているという。
物語に合わせて登場人物が行動するのではなく、一人ひとりの登場人物の内側から
物語を描くような構成は現代にも通じるところがある本物のリアリズムだという。
私が源氏物語という存在を知ったのは中学校の社会科の教科書からだったろうか、
そして高校の古文で多少お目にかかったように思うが、その後全く触れることもなく今日まで来た。
千年前の日本の一女性が書いた物語、それを歴史に登場する多くの人物が読み継ぎ伝えてきた。
そんなニュースを見て「自分はそんな名作を読んでないが、それでいいの?」と自問自答が起こる。
「思い立ったら即実行」は今の自分のモットーにしている。早速池袋のジュンク堂へ行ってみた。
さすがに機を捕えてのプロモーション、書店のコーナーに源氏物語関係の本が山積みなっている。
いろんな訳の本が並んでいたが、やはり女性の書いた物語だから女性の訳が良いだろうと思う。
結局瀬戸内寂聴訳の源氏物語文庫本全10巻に挑戦することにし、とりあえず1・2巻を買った。
さあ、読み切れるだろうか、買った後少し不安になる。
桐壷の巻きから話は始まる。
帝(みかど)の後宮に務める更衣の一女性桐壷(源氏の母)に対する異常なまでの寵愛ぶり、
そして桐壷が源氏を生んでから亡くなった時の見るも無残な落胆ぶり、
政務をつかさどる帝がこんな軟弱なことでいいのだろうか、読みながらそんな風に感じてしまう。
そして話は帚木の巻きへと進む。源氏も17歳になり普段はとりすまして女性に興味がない素振りを
しているが、しだいに周りに影響され始める。ある夜、プレーボーイとして名高い公達3人との
女性談義の時に話題になった空蝉(うつせみ)への興味を示し始める。
一向になびかない空蝉、そんなことから源氏の女性遍歴が始まって行くのであろう。
大まかなストーリーは解っていても、読みはじめて行くとすっきりとそのストーリーに入っていけない。
千年前と今との習慣や文化の違い。恋愛というテーマに興味が無いためか退屈なストーリー展開。
文章の流れや表現が現代語訳によっても、なお残ってくる違和感。
例えば 「長押しの下の廂(ひさし)の間に寝ている女房たちが、・・・・・・・・・。・・・・・・・・・・・・・。
源氏が襖の掛け金をためしに引き上げてごらんになると、向こ側からは錠がかかっていませんでした。
そっと入って行くと、几帳を襖口に立ててあって・・・・・・。唐櫃のようなものをいくつか置いてあって、
乱雑に散らかっています。その中を分け入って女の気配がするあたり・・・・・・」など、
家の構造がどうなっていて、どんな場所でどんな夜具を使って寝ているのかまったくイメージできない。
若いころ読んだ外国の翻訳小説のようなもどかしさを感じる。外国の習慣や文化の違いと、訳という
ワンクッションが入ることでの違和感、そんなものが小説の面白さを半減してしまうことに似ている。
それが映画という画像で見ればどんなものであっても、臨場感を持って感じることができる。
源氏物語も文章から入るより、映像から入った方が自分には理解しやすいのではないだろうか。
そんなことを思うと、よりもどかしさを感じて、次第に本を読む頻度が落ちてくる。
やはり自分には無理なのだろうか、少し落胆してしまう。もうすこし読み進んでみて結論をだそう。
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