友人に紹介されて「103歳になってわかったこと」という本を読んだ。著者は篠田桃紅という100歳を過ぎても現役の美術家である。ウィキぺディアによると、「和紙に、墨・金箔・銀箔・金泥・銀泥・朱泥といった日本画の画材を用い、限られた色彩で多様な表情を生み出す。万葉集などを記した文字による制作も続けるが、墨象との線引きは難しい。近年はリトグラフも手掛けている」とある。画像検索で作品を見ても、私には「???」と、作品の価値は分からない。しかし本を読んでみると、100歳を越えて人生の高みに立って見えるだろうことが、素直に書いてあった。私はこの先あと30年、果たして彼女のような景色が見えるのか?、到達できるのか?、人生の先輩の言葉として指針になるように思えた。
以下、本の中の一部を抜粋してみる。
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私も数えで103歳になりました。この歳まで生きていると、いろんなところで少しずつ機能が衰えます。老朽化していて、よく動いているものだと思います。私は生涯、一人身で家庭を持ちませんでした。比較的自由に仕事をしてきましたが、歳をとるにつれ、自由の範囲は無限に広がったように思います。自由と言うのはどういうものかと考えると、今の私かもしれません。なにかへの責任や義理はなく、ただ気楽に生きている。そんな感じがします。今の私は自分の意に染まないことはしないようにしています。無理はしません。・・・・自由という熟語は、自らに由(よ)ると書きますが、私は自らに由って生きていると実感しています。自らに由っていますから、孤独で寂しいという思いはありません。むしろ、気楽で平和です。
私には死生観がない。考えたところでしょうがないし、どうにもならない。どうにかなるものについては、私も考えますが、人が生まれて死ぬことは、いくら考えてもわかることではありません。現に、私になにか考えがあって生まれたわけではありませんし、私の好みでこの世に出てきたわけでもありません。自然のはからいによるもので、人の知能の外、人の領域ではないと思うからです。
歳をとったことで初めて得られたもの、歳をとったらもう得られないもの、それを達観して見ることができるようになりました。若いうちはいくら客観視していたつもりでも、自らがその渦中にいますから、ものごとを客観的にみることに限度があります。しかし歳をとるにつれ、自分の見る目の高さが年々上がってきます。今までこうだと思って見ていたものが、少し違って見えてきます。同じことが違うのです。それは自分の足跡、過去に対してだけではなく、同じ地平を歩いていた友人のこと、社会一般、すべてにおいてです。
老いるということは、天へと続く、悟りの階段を上がっていくことなのかもしれません。そしてそれができるのは、歳をとって目の高さを得るようになるからだと思います。自分というものを,自分から離れて別の場所から見ている自分がいます。高いところから自分を俯瞰している感覚です。生きながらにして、片足はあの世にあるように感じています。
なにかに夢中になるものがないと、人は生きていて、なんだか頼りない。なにかに夢中になっていたいのです。なにかに夢中になっているときは、ほかのことを忘れられますし、言い換えれば、一つなにか自分が夢中になれるものを持つと、生きていて、人は救われるのだろうと思います。仕事に夢中になったり、趣味に夢中になったり、宗教などに夢中になるのもそうだろうと思います。
人は用だけを済ませて生きていると、真実を見落としてしまいます。真実は皮膜の間にある、という近松門左衛門の言葉のように、求めているところにはありません。しかしどこかにあります。雑談や衝動買いなど、無駄なことを無駄だと思わないほうがいいと思っています。無駄にこそ、次のなにかが兆(きざ)しています。用を足している時は、目的を遂行することに気をとらわれていますから、兆しには気がつかないものです。無駄はとても大事です。無駄が多くなければ、だめです。・・・・・どの時間が無駄で、どの時間が無駄でなかったのか、分けることはできません。なにも意識せず無為にしていた時間が、生きているのかもしれんません。
今の人は、自分の感覚よりも、知識を頼りにしています。知識は信じやすいし、人と共有しやすい。誰しも、学ぶことで、知識を蓄えることが出来ます。たとえば、美術館で絵画を鑑賞するときも、こういう時代背景で、こういうことが描かれていると、解説を頭に入れます。そして、解説のとおりであるかを確認しながら鑑賞しています。しかし、それは鑑賞ではなく、頭の学習です。鑑賞を心から楽しむためには、感覚も必要です。感覚を磨いている人は非常に少ないように思います。感覚は自分で磨かないと得られません。絵画を鑑賞するときは、解説は忘れて、絵画が発しているオーラそのものを、自分の感覚の一切で包み込み、受け止めるようにします。このようにして、感覚は、自分で磨けば磨くほど、そのものの真価を深く理解できるようになります。
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一番最後に挙げた文章など、まさに私のことを言い当てられているように思ってしまった。美術館に行っても、作品に共感することは少なく、世間で言われる評価や解説を読んで、「なるほど」と理解する。これは鑑賞ではなく、著者が言う知識の共有に過ぎないのである。自分の最終のステップは、私がもっとも苦手な感性を開拓することかもしれない。そのためには著者が言うように、感覚を磨き、自分の感覚で包み込み受け止める訓練が必要なのであろう。私にはまだまだ人生の高みがそびえているのである。
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